TOP

2019年 関西旅行記 Vol.2

高野山・宿坊体験と奈良散策

                         
旅程
2日目 ●山の辺の道 奈良市~天理市
 〇海石榴市(つばいち) 桜井市三輪山南西
 〇「仏教伝来の地」碑 桜井市金屋町
 〇金屋の町並み 桜井市金屋町
 〇金屋の石仏 桜井市金屋町
 〇三輪山平等寺 桜井市大字三輪
 〇大神神社(おおみわじんじゃ) 桜井市大字三輪
 〇玄賓庵(げんぴあん) 桜井市大字粟殿
 〇桧原神社 桜井市大字粟殿
 〇纏向石塚古墳 桜井市大字太田
3日目  〇相撲神社 桜井市穴師
 〇纏向日代宮(まきむくひしろのみや) 桜井市穴師
 〇渋谷向山古墳(しぶたにむこうやま) 天理市渋谷
 〇長岳寺 天理市柳本
 〇御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ) 天理市中山
 〇夜都伎神社(やとぎじんじゃ) 天理市乙木
 〇内山永久寺 天理市杣之内
 〇石上神宮(いそのかみじんぐう) 天理市布留
 〇天理駅 天理市川原城
●宗教都市・天理市 天理市杣之内


閑話 ●迷い道
食べたところ ●福神堂 冷やし三輪そうめん 桜井市三輪
●せんぎりや アイス最中ほか 天理市乙木
食べたもの ●みかん2個&さくらんぼ1パック 無人販売所


2日目   38,378歩
19/05/14 山の辺の道

大和は国の発祥の地。古来、人々は日本のルーツを求め山裾の道を辿ったという。 7つの古道ルートの中、今回はJR桜井駅からJR天理駅まで(約16.4km)の日本最古の道「山の辺の道」を歩き、 古代文化をなぞる。

JR奈良駅から電車で約30分、桜井駅に到着。

「山の辺の道」スタート
19/05/14 JR(近鉄)桜井駅


北側が近鉄線・南側がJR

駅前周辺の舗道

山の辺の道」を示す表示があちこちに



海石榴市(つばいち)

七世紀頃、幾つかの古道が交わるこの周辺に大規模な市がたち
平安時代は伊勢詣でや長谷寺詣での宿場町として賑わったと。
因みに遣隋使・小野妹子が隋へ出発し帰国したのも、ここ。



馬井手橋

下を流れるのが大和川



「仏教伝来の地」碑

ここは大阪から大和川を遡る船便の終着地。
日本書紀によると「百済から仏教伝来使節が上陸した」そうな。


金屋の町並み


金屋は海石榴市として賑わった所だが、今は静かな民家が建ち並ぶ。
ほとんどの家の屋根が大和瓦。塀の屋根までも。



屋根の上の飾り瓦(大黒様)

金屋は飾り瓦の宝庫


いつしか、道は森の中へ

さながら森林浴



道沿いの「喜多美術館」前庭

木製の弦楽器のオブジェが!
粗削りな造形が、逆に高い洗練度を際立たせる。



「金屋の石仏」





中に収められた二体の石仏


弥勒・釈迦(推定):重要文化財
貞観時代から鎌倉時代の作と言われる。
こんな森の中、盗難の心配はないのか?



またまた山間の道を歩き




19/05/14 三輪山平等寺
山門


本堂




不動堂




二重の塔・釈迦堂

開祖は聖徳太子と言われる。その後 真言宗、曹洞宗と改宗。

1600年 関ケ原の戦いにおいて、敗兵の島津藩士らが平等寺に落ちのび深い恩義を受けた。 以来、島津家と平等寺との縁は今日まで続く。

1869年 明治政府による廃仏毀釈により、かつては三輪明神の別当寺であった平等寺は廃寺となり、 1977年 土地の人々の協力を得て曹洞宗の寺として再興。今は三輪明神(大神神社)の神宮寺。
19/05/14 大神神社(おおみわじんじゃ)

縄鳥居と拝殿




二の鳥居

重要文化財(建物と拝殿前の三ツ鳥居)

社は纒向(まきむき)や磐余(いわれ)地区周辺で勢力を張っていた先住族が、 巨石など自然物を祀る磐座(いわくら)祭祀を営んでいた日本で最も古い神社のひとつと言われている。

御神体は三輪山。ために、本殿を持たない。まずは縄の鳥居に驚き、本殿が無いのに又びっくり。

日本神話の世界に足を踏み入れた様な。
※三ツ鳥居は、非公開
19/05/14 福神堂の三輪素麺




三輪素麺

@700円

大神神社・二の鳥居前にある「三輪素麺で有名な店」で昼食。 飲食店で素麺を食べるのは初めてなので、スタンダードな冷素麺を注文。

竹の容器に彩りよく盛られて登場した素麺は、見るからに涼しそうだ。 添えられた味付き椎茸とわかめを、麺と一緒にツユへ入れて口へと運ぶ。 この麺のこしは素麺自体の特性なのか、はたまた 「湯で加減」の成せる技か。 家庭で食べるのとは、一味も二味も違う。さすが、プロ。 ただ、つゆは想像と違って少々濃いめで甘め。関西はダシを効かせた薄味が一般的と聞くが、私の味覚が変なのか?・・・ 「ま、美味しいから良し」と。
19/05/14 玄賓庵(げんぴあん)

法相六祖の一人・玄賓僧都の庵。もとは三輪山にあったが、明治の神仏分離でここへ移す。

法相とは、すべてのもののありのままのすがたを明らかにすること。 仏教の宗派の一つである法相宗は三蔵法師(玄奘)が開祖で、その弟子が開いたもの。 日本では、薬師寺・興福寺・清水寺の三寺が本山。 のちに清水寺は北法相宗として抜け、現在は薬師寺と興福寺の二寺。

法相六祖は興福寺興隆に尽力した六人の法相宗の僧を指し、興福寺南円堂に法相六祖像があるそうな
19/05/14 桧原神社


大神神社と同じく縄鳥居



三ツ鳥居


桧原神社は大神神社の摂社)

大神神社同様に本殿がなく、のみならず拝殿もない。 三輪山の磐座(岩)を御神体とするため、三ツ鳥居から三輪山を拝する。

大きな鳥居の両脇に二つの鳥居を組み合わせた「三ツ鳥居」は、別名「三輪鳥居」とも言う。 本殿に代わるものとして三輪山と拝殿を区切る場所に建つ神聖なものとされてきた。

三本の格子状の鳥居が「この先は何人も通さないゾ」と主張していた。
19/05/14 豊鍬入姫宮

大神神社の末社

崇神天皇が、自らの息女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に天照大神の御霊を託し、 桧原神社の敷地内に宮を創建し祀ったと言われる。
19/05/14 迷い道

桧原神社を後にし、程なく一本の道に出た。 ここが今日の私と家人の運命の分かれ道となろうとは、神のみぞ知る。

写真の現在地に立ち、まず目に入るのは右手の2本の白い看板。 「←笠山荒神」と「→桧原神社」。桧原神社は今行ったから、右だね」 と躊躇いもなく山の方へ歩き始めた。

歩を進める程に道の勾配はきつくなり、まごうことなき森の中。 「道を間違えたか?」。嫌な予感が、胸に広がる。 と、そこで道路工事の現場に出くわし内心ほっとするも、 あまりに忙しそうで道など聞ける雰囲気ではない。 すでに40分経過。 いかな呑気な私共夫婦でも、さすがに撤退の2文字が頭を過る。 尾籠な話で恐縮だが、この時 家人がもよおして樹木が生い茂る森の中へと分け入った。 残された私は道端に佇み、藁をもつかむ思いでスマホを睨みつける。 が、日頃 地図アプリを開く機会がないので、目的通りに現在地を把握できない。 時間ばかりが過ぎ、もうじき日も沈むだろう。その上、 強い日差しのためスマホ画面が真っ黒で見づらいのも、気持ちを急かす。

がさごそと家人が戻って来るのと同時に、目の前に一台の軽トラが停まった。 「どうしたの?」と声をかけてくれたのは、 昨年 山口で2歳児を発見したボランティアの「あの尾畑さん」そっくりの男性。 「そうなんだ。昨日もここで道に迷った人を駅まで送ったけど、あの看板じゃ間違うよ。 市に何度も言ってるのだけど、さっぱり動かない」。憤懣やるかたなしと言った口ぶりで、最寄りの巻向駅までくれた。 この出会いが無ければ、来るか否かもわからないタクシーを呼ぶか、警察へ救助を要請するか、 森の中で一夜を明かすか、の三択だったろう。

ちなみに「あの看板」とは、私達をここまで誘導した白い看板のこと。 本当は、 現在地の左手の「赤い表示板」、 そこに小さな文字で書かれた目的地・天理の文字を見つけなければならなかったのだ。 「奈良の尾畑さん」が、天使に見えた。
19/05/14 纏向石塚古墳(まきむくいしづか こふん)

こんもりした所が古墳

「奈良の尾畑さん」が道々言っていた。 「ここらは古墳が、た~くさんあるんだ」と。 沢山ある中の一つ・纏向石塚古墳は、巻向(まきむく)駅から徒歩10余分程。

纏向石塚古墳は、周囲を畑に囲まれた全長96mの前方後円墳。 築造は、3世紀前半から中頃と推測され、周りには濠が廻らされていた模様。

「JR巻向駅周辺にひろがる纏向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、 あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国・東の候補地として、 全国的にも著名な遺跡です」(出典:桜井市纏向学研究センター)。

なんと、電車待ちでふらっと訪れた地が“初期ヤマト政権発祥の地”だなんて。 で、卑弥呼との関係は?想定外の展開で、頭がくらくらしてきた。
3日目   42,610歩
山野辺の道・再スタート
昨日迷った“白い看板”から再開
19/05/15 相撲神社

鳥居の奥・右手に土俵入りの力士像が

ここは、大兵主神社という大きな神社の神域カタヤケシ。 カタヤケシとは、ここを指す地名。何故にカタカナなのか? 約2000年前、相撲神社の祭神・野見宿禰と当麻蹴速が、この地で日本最初の天覧相撲を行った。 これが国技としての相撲のはじまりとされ、以来 この神社が相撲発祥の地と言われているそうな。

力士像の奥に土俵があり、いかにも相撲神社。しかし、隣に広げられたビニールシートは何だ?

眼下に穴師の町並みが広がる




道端の野イチゴ

車がほとんど通らない道なので、ちょいと試食
あま~い!


19/05/15 纏向日代宮(まきむくひしろのみや)

纏向日代宮は、第12代景行(けいこう)天皇の宮殿。 とは言え、今は祠と石碑と看板があるのみの址。

系図によれば、景行天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされる。 ならば、日本武尊もこの地を訪れただろうか?実在したとすれば、の話だが。
19/05/15 渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)

桜井市と天理市の境にある。古墳は4世紀後半の築造で、日本武尊の父・景行天皇の陵墓とされ、 宮内庁が管理。広い敷地のぐるりには、木の柵が巡らされ「立入禁止」の表示板も。

多くの学者は、景行天皇や日本武尊の存在を否定している。 事実のほどは解らない。 が、天皇であろうと土地の豪族であろうと、誰か有力者がここで生きていたことだけは事実。 その時、市井の人々は どんな暮らしをしていたのか。思いはどんどん膨らんでゆく。
19/05/15 長岳寺
山門と勧請縄

山門は本瓦葺きの四脚門

「勧進縄」をズーム

門前の左右の木に渡した縄は
雨乞い祈願

高野山真言宗の寺院。開祖は空海(弘法大師)。 山号は釜の口山(かまのくちさん)。本尊は阿弥陀如来。

かつては大きな寺だったが、兵火と廃仏毀釈により衰微。 鐘楼門、延命殿(旧地蔵院本堂)ほか多くの国の重要文化財は、今も残る。


受付で拝観料@400円/1人を支払い。

朝の開場直後で「ちょっと待ってくださいね。今 開けますから」
寺の女性が鍵束を握って12,000坪の広大な敷地内へと消えた。
鐘楼門:重要文化財


日本最古の鐘門(創建当初のまま)
上層に鐘を吊った遺構あり
ここを潜ると本堂・放治池にでる

庭園

本堂の鍵が開くまで、ご自慢の浄土式庭園をちくっと拝見。

カラー

純白の白い花が庭園の中で一際映える



ムーシューチュー(木綉玉)

紫陽花かと思ったが、さにあらず。
直径20cmもある巨大な白い花房が圧巻。

本堂


池ではカキツバタが満開

本堂周辺は、名残を惜しむ様に平戸ツツジが咲く。秋の紅葉も見事なのだとか。さすが、花の寺。

今朝一番の参拝者・家人と私に本堂前でお寺の女性が耳打ちした。 「ご本尊は、玉眼です」と。 玉眼とは、 目の部分をくりぬき内側から水晶を当てて瞳を描く手法で、 現存する中では最も古い藤原時代末期の作品。 ご本尊は撮影不可。なるほど、確かにリアル。まるで生きている様な眼差しだ。

延命殿(旧地蔵院本堂):重要文化財


室町時代の書院造りのままに残る

御本尊・普賢延命菩薩像:重要文化財


縁側に座り、室町時代の美しい庭園を眺める。
遠い日、どんな人がここに座り、何を思い この庭を眺めたのか。
その人が辿った人生に幸多かれと、ひそかに願う。

門近くの不思議な木

太い木!に見えたのは、実は石。その石の中に、一本の木が埋め込まれたかの如く。
居合わせた寺の職員さん曰く「木が石の中を突き抜け、縦に真っ二つに裂けた石の半分は崩れた様で」





みかん&さくらんぼ
(農家の軒先・無人販売所で)


   
小粒なさくらんぼが、陽を受けて宝石の様にキラキラ光り
瑞々しいみかんが乾いた喉を潤してくれた。
( みかん2個、さくらんぼ1カップ 各@100円)





19/05/15 御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)

大和神社の境外末社

毎年4月1日の「ちゃんちゃん祭り」では、長い劃「渡御行列」が、本宮⇔御旅所を行き来する。
19/05/15 歯定神社

医療の神・少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る“歯の神”

葉物野菜の種蒔きに、豊作祈願をしたと言われる



墓地

ここも「山の辺の道」



墓地を抜けると

左のこんもりした所が柿畑



船渡地蔵

腰痛治しの地蔵さん





19/05/15 せんぎりや

畑の道沿いに“昔懐かしい店”発見! 入口へ足を向けると、横付けした車から転がる様に降りてきた若い女性が、 店先の冷蔵庫を覗き込み「あ、あった」と嬉しそうに呟き、 中からイチゴのパック3つを取り出した。 その時、後ろに立つ私に気づき、バツが悪そうに「あの、幾ついります?」と尋ねた。 冷蔵庫内の残りは2パック。 家人に問うと「1パックでいいよ」と言うので、私は1パックを手に店内を探索。 その間に、女性は「あの、1パックでいいんですか。私 残りを買ってもいいですか」と、家人に問うたそうな。そして、 戻ってきた私に爽やかな微笑と会釈を残し立ち去った。 後で家人から経緯を聞き、通りすがりに飛び込んで彼女の頭を撥ねてしまった私たち、申し訳ない。

上左からイチゴ・切干大根・アイス最中・揚げおかき
全品@100円

この店のメイン商品「せんぎり大根」は、機械で切りバーナーで一昼夜乾燥させたもの。 一方「せんぎり大根」よりも色が濃くごっつい「切り干し大根」は包丁で切って天日干しし蒸したもの。 これらは、店主ご夫妻の手作り。他にも小豆や玄米・米・など多種の商品が店内に置かれていた。

支払いは、入口の古い金庫へ入れる完全セルフ。店の人は誰もいない。 これで、防犯は大丈夫なのか。つい、心配になる。 あれこれ見繕って5点。財布を開くと小銭がない。 恐縮ながら、奥の居住スペースへ勘定に行き、期せずして店主ご夫妻におめもじする事となったが、 純朴で誠実そうなご夫妻だ。

さて、店の奥の休憩スペースで一休み。 購入したアイス最中をぱくつく。 こんな暑い日は、冷菓が効く~。 と、見回せば常連らしき男性が件の冷蔵庫からドリンクを取り出し、持参した弁当をひろげていた。 テーブルの上には、無料でお茶が用意されている。 と、その横に店主ご夫妻とお客さんとを繋ぐノートが置かれていた。 何気なく読み始め、気が付けば3冊を読了。 イチゴ目当てに訪れる人も多い様だが、売り切れて買えなかった。 という文面を多く見らる。やっぱり、イチゴは人気らしい。

そう言えば、椅子の後ろに日本酒の一升瓶が無造作に置かれていた。 ノートによると、正月に客へ振舞ったと。 多分、客の多くが顔を見たことがないであろう店主からの贈り物。 「無人なのにリピーター続出の店」と言われる、その所以が分かる。 ほのぼのと心が温まり、私も感謝の気持ちを、一筆計上。



道端の花

染みる様な赤が、一際目を惹く





19/05/15 夜都伎神社(やとぎじんじゃ)

この鳥居も春日大社のお下がり?
拝殿

珍しい藁葺

俗名・春日神社。
元々、この地には夜都伎神社と春日神社の二社が存り、二社を一社にして社名を夜都伎神社とした。 又、春日大社との縁は深く、 古くなった社殿や鳥居を60年ごとに夜都伎神社に下賜して使用させているそうな。



又また山道






19/05/15 内山永久寺跡

雲の下・木々の間に見えるのが本堂池
数少ない永久寺の名残

平安時代後期の古刹にして、興福寺の末寺。 興福寺を支配していた有力一派を後ろ盾に、 大和では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ大寺であった。

「西の日光」あるいは「大和の日光」とも呼ばれ 40もの堂塔と多くの伽藍を有した「大和有数の大寺院」は、 明治初期の廃仏毀釈の荒波に呑まれ、 幻の如くかき消えた。 一説によれば、寺の運営中枢にいた勤王派の僧侶が、 勤王思想の元に廃寺を粛々と進めたと。 廃寺後は破壊や略奪の対象となり、破壊を逃れた寺宝の多くも国内外へと流出した。

“うち山や とざましらずの 花さかり”宗房(松尾芭蕉の俳号)

~意味~
(今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。 土地の人はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、 外様(よその土地に人々)は知るよしもないのである)
※内山とは、ぐるりと山に囲まれた盆地という意味。

今は、ビニールハウスが建ち並び静かな田園風景が広がる。時の流れは残酷で、傷ましい。
19/05/15 石上神宮(いそのかみじんぐう)
大鳥居

脇に柿本人麻呂の歌碑あり
楼門:重要文化財

左右に続く朱色の回廊が
緑の木々の中、美しい



拝殿:国宝

第72代白河天皇が宮中の神嘉殿を移したもの。
国内最古の拝殿



御神鶏

その数 約30羽
暁に時を告げる鳥として
「神様のお使い」とされ、境内を闊歩



飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神。

主祭神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)ー神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊

拝殿より奥は「禁足地」。 明治時代に宮司が足を踏み入れ、勾玉や剣・鉾などをぞっくりと発掘。 中でも「七支刀」は、「神功皇后摂政52年に百済から献上されたと見える」 との記述が「日本書紀」に見られる歴史的価値の高い遺物。 これらの寺宝のために、元々 無かった本殿を大正時代に創建した。
19/05/15 天理駅

向かって右がJR、左が近鉄

元は別々だったJR駅と近鉄駅が統合されて出来た駅。一日の乗車客は、JRが3000人弱、近鉄が7000人弱。

最も多いのは、天理教本部へ向かう信者の利用で、毎月26日の月次祭などの祭礼時には、 近鉄とJRは臨時列車や専用列車「天理臨」を臨時運行するそうな。そう、ここは天理教本部のお膝元。

2017年に整備された駅前広場「コフフン」(CoFuFun)は、カフェ、野外ステージ、母子の休憩スペース、 観光案内所などがあり、市民の憩いの場所となっている。 名の由来は古墳をイメージしたオブジェクトから。 ぱっと見、何だか分からないが、上空写真を見て納得した。歩き疲れた腰を下ろし、ほっと一息。
「山の辺の道」フィニッシュ

奈良盆地の山裾を縫うように続く古道で、日本最古の道のひとつである「山の辺の道」。

人っ子ひとりが通れる小道を行くと、柿畑や古い集落やらが現れ、古代の道を歩いている不思議な感覚がわいてくる。当時の人々も、私の靴の下のこの同じ土を踏みしめて歩いていたかもしれない。だとすれば、何を思いながら歩いていたのだろう。思いは尽きない。

道に迷ったり紆余曲折はあったものの、念願のゴールに到達し感慨無量。アクシデントにより「山の辺の道」を2日がかりで歩いたが、古代のロマンに浸った豊かな時間だった。さて、次はどこの道に行こうかな。癖になりそうな。
19/05/15 宗教都市・天理市

愛豫詰所

教徒の宿舎
市内の教徒宿泊施設は140以上



午後2時

畑仕事の合間、道端で神殿へ手を合わせる男性



天理大学

長い建物が、ずらりと繋がっている



この先、神殿

まるで宮殿のよう



神殿




天理本通

市の人口67,000人ほど。 その4割が天理教信者。高校野球や柔道で有名な天理だが、 宗教団体の名を冠した唯一の都市としても知られている。

と、この程度の知識を仕込んで訪れたが、そのスケールに圧倒された。 ここには、幼稚園・小中学校・高校・大学・各種専門学校・医療施設・相談施設・宿泊施設など、おおよそ生活に 否 人生に必要な施設がほぼ揃っている。それらを収めるために、 神殿を中心に同じ建築様式の巨大な建物が幾重も建ち並び、 まるで大がかりな映画のセットのようだ。 これが、日本の一都市なのか? 町中を「天理教」の黒い法被を着て行き交う人々を見ていると、 見知らぬ世界へ迷い込んだ様な不思議な錯覚に陥る。

通りすがりのタダの観光客の私と家人は、無論 天理教徒ではない。 おそるおそる神殿正面で靴を脱ごうとしたら、下足係の高校生がさっと近づき、 肘を曲げこんがりと日焼けした腕を私の目の前に突き出した。 「良かったら、どうぞ」と。生憎ナイトに腕を借りたことの無い私は、 思わず「大丈夫です」と丁重に辞退したが、悪い気はしない。

さて、神殿は真座(ぢば)を囲む様に東西南北の礼拝場が配され、ここは南礼拝場。 中に柱が幾本かあるだけのとてつもなく広い畳敷きの大広間。 見回せど大きな太鼓が鎮座する程度で、ほかの装飾品は見当たらない。皆 正面を向き、座して頭を床につけたり拍手をして参拝していた。 私たちも周囲を窺い、付け焼刃でそれをなぞる。 厳かな雰囲気は、一見の価値あり。 廊下では、高校生が5・6人楽しそうに床磨きをしていた。

礼拝場を出ると、天理本通と言う商店街の前に出た。 天理教の祭事に着る衣類を扱う店も数店あり、書店には天理教の書籍が並ぶ。 さすが天理教のお膝元。勿論、一般の店屋もあり、干柿を1袋購入。 なんと16個入りで@300円。「食べる直前にレンチン1分ね」と店主が念を押す。 しっかり干された柿も、レンジを駆使して難なく美味しく化けた。
Vol.3へ
BACK 19関西Vol.1 TOP





©2007匁の旅手箱
inserted by FC2 system