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11北陸・甲信 Vol.2からの続きです。

2011年 北陸・甲信旅行記 Vol.3

寝台特急カシオペアで上京、奈良井宿・昇仙峡・東尋坊


旅程
9日目 定期観光バス・輪島号
  ○輪島
  ○輪島漆器会館
  ○輪島の朝市
  ○總持寺祖院
  ○芳春院
  ○能登金剛
  ○千里浜なぎさドライブウェイ
10日目 芦原温泉駅
東尋坊
11日目 柴田神社
永平寺
シンボルロードモニュメント
新日本海フェリー・すずらん
●まとめ


閑話 ●金持ちの身勝手
●鯖江の小学生たち
●北海道と福井の深い縁
泊まったところ 東横イン福井駅前
食べたところ レストラン巌門 がんもん定食
敦賀ヨーロッパ軒 ソースかつ丼&パリ丼


食べたもの いかだんご 千里浜レストハウス


9日目   能登半島 編   今日の歩数=10.217歩  晴
11/09/27 定期観光バス・わじま号


能登半島へは、鉄路がない。路線バスにしても、本数が極めて少ない。奥の手・ツアー。

金沢駅→輪島の朝市→總持寺→巌門→千里浜なぎさドライヴウェイ→金沢駅 。
所要時間=8時間。ひとり@7200円。


11/09/27 輪島
輪島漆器会館

ツアー参加者には、もれなく輪島塗の箸がもらえる。 「朝市の入口にある輪島漆器会館で受け取るように」とのこと。

会館は、一階が約100にも及ぶ漆器専門店が共同出店している販売フロア。 二階が資料館。まずは、二階へ箸をもらいに行く。凄い。 国の重要有形民俗文化財指定を受けた安土桃山時代~明治初期あたりまでの作品や貴重な資料が、約4000点も展示されているのだ。 日本随一。塗り重ねられた漆の光沢。見事な輪島塗の品々に、見惚れる。

一階へ降りると、同じバスで来た父娘が輪島塗の製品をごっそり買い込み宅配手配中。 「父と娘とで旅行。感心な娘さんだこと。」と車中で密かに思ったが、食器店を経営している父娘が仕入れの旅にきたのかも。
輪島の朝市


朝市通りは、ほぼ360m。 約200軒以上の店が軒を連ねる。 海に面した漁港・輪島ならではの「海の幸」から雑貨まで、並ぶ商品は幅広い。

地べた売りのおばちゃんも多く、まるで制服の如くモンペにタオルのほっかぶり。
「ちょっと、おねえちゃん。安くしとくからこうてって。」と言う声に、思わず足を止め視線を奪われる。 「おねえちゃん」の一言に眩惑された訳ではない。活気の源となるパワーに脱帽。

ちなみに、朝市の露店の場所は親から子へ、子から孫へと何代も引き継がれてきているそうな。 「輪島の女は働き者。亭主の一人や二人食わせられない女は甲斐性なし。」って、それ、男の間違いじゃぁないの。
11/09/27 總持寺祖院

開祖・螢山禅師一代記の欄間の彫り物

總持寺は、意外にこじんまりとした造りだった。

行基が創建し、もとは諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた密教系の寺院である。 その後「総持寺」と命名され、「能登の大本山」として親しまれた。 明治期の大火を機に大本山移転の声があがり、横浜鶴見へ移転。 以降、こちらの總持寺は總持寺祖院と呼び分けられている。 いつ如何なる理由で「総持寺」が「總持寺」と変わったのだろう。

そんな歴史を若い僧侶が慣れた口調で説明し、立ち去った。 後は、各々に寺の中を見学。しかし、一部改築中で立ち入り不可の場所も。 廊下を歩いていたら、リズミカルな包丁の音が聞こえてきた。 あたりに漂う煮物の匂い。ここにも、確かに「人の暮らし」がある。 そんな当たり前のことに思い至った。
11/09/27 芳春院

總持寺祖院・山門手前にある芳春院。

NHK大河ドラマ「利家とまつ」で知られる「前田利家の正妻・まつ」の菩提を弔うために建立された塔頭。 本山が横浜へ移転した折に、唯一とどまった塔頭である。

まつは、母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹の関係にあたる。 利家との間には、当時でも珍しいほど多くの子・2男9女をもうけた。

早くに亡くなった長男・利長の妻「玉泉院」は信長の息女。 まつは、とても可愛がったという。 一方、次男・利政は、関ヶ原の戦いの後、徳川家に従うことなく京・嵯峨野に隠遁。まつは、 こっそりと次男一家の生活費を送っていた。 さて、忍者寺の主にして2代藩主の利家の4男・前田利常。 まつを人質として徳川家に差し出し、自身は徳川家から嫁を娶る。 更には、鼻毛をのばしてバカ殿を装った。 徳川家への忠誠を示す事により、家督安泰を図ったのだ。 ちなみに、4男はまつの子ではなく側室の子である。 実子の男子が、利家とまつが築いた加賀百万石を継ぐことは叶わなかったが、 まつは懸命に前田家を支えたのだった。

まつの無二の親友が、豊臣秀吉の正妻・ねね(高台院)。 賢婦人のイメージが重なる2人である。戦国大名として難しい世渡りが求められた当時、 その妻として信長にも秀吉にも徳川にも誠実に対峙し、時の波を乗り切り前田家を守り抜いた 。聡明な女性がここに眠る。
11/09/27 レストラン巌門

がんもん定食
(ツアー料金に込)

待望の昼ごはん。 ツアー団体用の食堂へ。 テーブルの上では、すでに「がんもん定食」がセッティングされていた。

ここは、1階が土産物屋で2階がレストラン。 広い部屋にテーブルと椅子がずらりと並ぶ。学校の修学旅行の昼食風景に、そっくりだ。

「がんもん定食」@1680円(ツアー代金に込み)。 「さざえ飯」は、食べた経験がないので嬉しい。 大きな窓のむこうには、能登金剛の海と岸壁がひろがっていた。 荒々しい海岸線に、背筋が伸びる。
11/09/27 能登金剛

巌門(がんもん)

能登金剛は、自然が作り上げた奇岩・断崖が約30mも連続する海岸線である。 能登半島国定公園の海岸美は、能登観光のハイライト。

巌門・関野鼻・機具岩など日本海の荒波によって浸食された風景は、男性的な力強さで見る者を圧倒する。 能登金剛という名は、朝鮮半島有数の景勝地・金剛山に匹敵するという意味合いで名付けられたという。

千里浜砂まつり レストハウス前の砂浜を会場として、今年で18回目となった千里浜砂まつりが開催されていた。 地元の子供たちの作品は、見事。入場無料。
巌門 波の浸食により形成された、天然の洞門。松本清張原作の映画「ゼロの焦点」のロケ地として、有名。
機具岩 2つの岩が寄り添い、太い綱で結ばれている夫婦岩。 別名「能登二見」。 背の高い方が女岩なのは、なぜ?能登では女性の方が大きくて強いのか? 夕陽が美しい撮影スポット。
がんもん橋 しあわせのがんもん橋。比較的新しい橋だとのこと。日本海を背景として、美しく映える。
閑話
金持ちの身勝手

形状は帆立の貝殻にそっくり

食事を済ませた後、希望者のみ遊覧船へ。 私と家人は、短い滞在時間を周辺の散策に充てる。 松本清張「ゼロの焦点」の石碑があるそうな。

「ゼロの焦点」看板を発見! そこに、小さな土産物屋があった。 店番をの高齢女性に、道を訊ねる。 「その道を行けば、あるよ。」と気さくに教えてくれたのだが、行けども行けども石碑が見つからない。 気がつけば、さっきの土産物屋の前に出てしまった。 店の奥から、先程の女性が飛び出して来た。 「なかった?すぐ、そこなのに。」。 すると、店の前で薪割りをしていた彼女の夫が、手を止めて憮然とした面持ちで言った。 「石碑なんて、すぐそこなんだ。看板がなきゃ、観光客は行けないのに、 何度 俺らが自費で看板を立てても、すぐに抜いてしまう。 困ったもんだ。 ここらの金持ちが、観光客を自分の店に誘導するために、他の観光場所に行かせたくないんだ。 いい所を皆に見てもらってこそ、これからも観光地として人が来てくれるのに、自分の儲けしか考えていない。」

それで、石碑の矢印看板は1つしかなかったのか。なんという姑息な。 「ゼロの焦点」という願ってもない観光の目玉を、使わない手はない。 しかし、考えてみれば多くのツアー客は、観光バスでやってきて食事をして遊覧船に乗って疾風の如く去っていく。 短い滞在時間に自分の店でより多く金を落とさせようという、エゴの図式が垣間みえる。 彼らには、観光客は財布にしか見えないのだろう。

←ここで取れる色とりどりの奇麗な貝殻は、自然の色。 土産物店の店先に広げ干した後、キーホルダーなどに加工して商品となる。
11/09/27 千里浜レストハウス

いかだんご@150円

トイレタイムで立ち寄った「千里浜レストハウス」。 1階が土産物屋で、2階がレストラン。 「レストラン巌門」と同じ会社の経営による。 巌門もこの地域も、他には大きな観光客向け施設は見当たらないので、このあたりの大手ということらしい。 すると、もしかして巌門の小さな土産物屋のおじさんが嘆いていた「金持ち」というのは、ひょっとして...。 いや、推測。

トイレの用を済ませて土産物売り場へ行くと、外から家人が入ってきた。 その手には「いかだんご」。 これは、店の入口付近で売られているもの。 揚げたての烏賊ミンチはふわっと口の中でとろけて、何とも旨い。
11/09/27 千里浜なぎさドライブウェイ

渚には車の轍が

バスは、突如、渚を走りだした。 「バスが、波にのまれる。」と驚愕の私。

ここは千里浜なぎさドライブウェイ。 自動車やバスが波打ち際を走る、世界的にも非常に珍しい観光道路。長さは約8kmにも及ぶ。 砂のきめが細かく、水分を吸って固くなると特別に細かく締まるために、 普通の砂浜の様に大型車の重さにも沈まないのだと。

打ち寄せる波の音、能登半島の雄大な自然、海のぎりぎり際を走行する爽快さ。 なんて素敵なんだろう。 「興奮と感動」の至福のドライブウェイ。
10日目   福井 編   今日の歩数=13.087歩  晴
11/09/28 芦原温泉駅
今夜の宿は、福井。金沢に心を残し、朝の早い電車に飛び乗った。

「芦原温泉駅」と書いて「あわらおんせんえき」と読む。 芦原温泉駅は、福井県北の観光地・芦原温泉や東尋坊へのアクセス拠点である。

駅前で、バスが待っていた。 駅前ロータリーの人影はまばらで、のんびりとした気配が漂う。 駅に置かれていたのが、ハローワークの求人情報。駅で人集めをする程、人手が足りないと言うことか?
東尋坊・永平寺2日フリー乗車券

駅内をキョロキョロ見渡し、棚にチラシ発見。

「東尋坊・永平寺2日フリー乗車券」(京福バス)@2000円。
これだ!
11/09/28 東尋坊

昔、この地に民を苦しめる東尋坊という僧がおったそうな。 東尋坊は、美しい姫君に恋をした。 ある時、その姫をめぐる恋敵によって、東尋坊は断崖絶壁から突き落とされてしまう。 すると、たちまちにして天候が変わり、暴風雨が四十九日間続いたのだと。 毎年四月五日の命日には、東尋坊の怨霊が大波となって岸壁を打つ。 以来、この岸壁を人は「東尋坊」と呼ぶようになった。(民話より)

ごつごつとした岩がそそり立つ断崖絶壁。 下を覗きこめば、海に吸い込まれてしまいそう。 これぞ日本海の絶景!

東尋坊は自殺の名所として有名だが、「こんなに観光客が沢山いては、自殺も出来ないだろう。」 と思いつつ、付近を散策していたら、茂みに手作りの立て看板を発見。 「もう一度思い出してみよう、友達を。」と。 自殺志願者を思いとどまらせるためのモノらしい。

帰宅後、東京で宿を提供してくれた愚息に安着の報告をした時のこと。
愚息「あれからどこへ行ったの?」
私  「東尋坊へ行ってきたよ。」
愚息「船越英一郎いなかった?」
私  「・・・?」
船越英一郎が出る2時間サスペンスドラマのラストシーンは、断崖絶壁が定番なのだそうな。 船越英一郎はいなかったが、東尋坊がサスペンスドラマの撮影に使われることが多いのは確か。
11/09/28 東横イン福井駅前

物干しロープ

どこの東横インも、ほぼ駅近にあり便利。 値段の安さと足回りの良さは最大の魅力だが、ここは駅西口から徒歩1分の極めつけ。 おにぎりや味噌汁などの軽い朝食つき。

部屋に優れもの発見!→「物干しロープ」
●ロープを引く時は、ロックを解除してください。
●フックを反対側のリテーナーに掛けロープをロックして使用してください。
●10kg以上は干さないでください。(部屋に張られた注意書きより)
ロックというのは、右写真下の小さなハンドル。左写真が、リテーナー。

連泊する人には、最強のアイテム。
11日目   柴田神社&永平寺&敦賀 編   今日の歩数=21.453歩  晴
11/09/29 柴田神社

茶々・江・初

柴田神社は、戦国武将・柴田勝家の居城・北ノ庄城の本丸跡地。 織田信長の妹・市が、夫・浅井長政の死後に娘3人を連れ再嫁し暮らした地である。

境内には、市の娘(茶々・江・初)を祀る三姉妹神社がある。 政略結婚の市と長政の夫婦仲は、人も羨む程。 そんな幸せも長くは続かず、長政は信長によって自害に追い込まれる。 夫と一緒に死ぬことを希望した市は、意に反して救い出され三姉妹を連れて勝家と再婚。 勝家が秀吉に敗れたため、夫とともに自害した。享年37歳。

三姉妹が、後々、歴史の表舞台に躍り出て日本の歴史を変えていくことになろうとは、神のみぞ知る事実。 「浅井と織田の血を絶やさぬように。」と北ノ庄城落城の折り、市は娘たちに言い含めたと言う。

長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生むが、「大坂夏の陣」で秀頼ともども自害。 秀頼と正妻・千姫(徳川二代将軍・秀忠の娘)との間に子供はないが、側室との間にもうけた男児は殺害され、 秀吉の血と茶々系の浅井・織田の血は途絶えた。 一方、三女・江は徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍・家光ほか多くの子を生む。 戦国大名・京極氏に嫁いだ二女・初は、子どもは無いが、敵味方に分かれた豊臣側の姉と徳川側の妹、 その間でうまく双方を取り持つ。 こうして、三女・江の血筋だけが今日まで脈々と残る。 政争の具とされた悲劇の絶世の美女・市は、政略結婚を繰り返しながらも夫を愛し抜き、 幸うすい人生と引き換えに血筋を残した。

三姫の像は、過酷な運命など想像できない程、可憐で愛らしい。
閑話
鯖江の小学生たち

柴田神社の一角に、新しく整備された北ノ庄城公園がある。 小学生たちの塊がいた。 彼らは、白いシャツと紺のスカートorパンツの制服姿。 まるで、白と紺の花が咲いているようだ。 その円芯で、教師が言った。 「臨機応変にいけ!臨機応変にな」。 その言葉を合図に、子どもたちは5・6人のグループごとに、一斉に各々の方向へと走り去った。 生徒が散っていったその後、教師は傍らの自販機でドリンクを買い、ひとり憩う。 先生も、臨機応変に休憩。

公園を後にして駅方向へ歩いたら、件の小学生グループのひとつから「おはようございます。」とさわやかな挨拶を受けた。 彼らは、福井市から程近いメガネの産地で有名な鯖江の小学生。 今日は、研修旅行なのだと。札幌から来たと言うと、「え、北海道からだって。」と、一様に目を輝かせた。 彼らにとって、北海道は地図上の遠い地名。 「今度、きてね。」と言うと、中の一人が考えてきっぱりと言った。「いけたら、行きます。」。 他の子たちの間で「うわ」と、ドヨメキが起きた。 あてもない約束。いや、約束とも言えまい。 大人同士なら単なる社交辞令の言葉のキャッチボールだが、真摯で純真無垢な応答が、爽やかに心に沁みる。 遠い昔、どこかに置き忘れて来たものを見た。

いつかきっと、あの子たちが北海道へ遊びに来られる日が来たらいいな。 その時、私たちの事を思い出してくれるだろうか。
11/09/29 永平寺

磨きこまれた回廊

永平寺は、總持寺とともに日本曹洞宗の大本山である。 開祖は道元。拝観料@500円。

全国から集まった百数十名の若い修行僧が毎日厳しい修行に励んでいる。 人は彼らを雲水と呼ぶ。 雲水の教育係として30名余の幹部僧がおり、寺は雲水と幹部僧とで運営されている。

広い寺院内を見学中、急ぎ足で移動する沢山の修行僧たちとすれ違った。 皆一様にすらっとした細身。眼鏡をかけている者は、一様に黒ぶち眼鏡。決まりかな。

この寺では、檀家信徒や一般者の禅修業体験が出来るそうな。
法堂の祭壇前で、20名程の法衣の若者たちが、満面の笑みを浮かべて写真を撮り合っていた。 同派の寺からの見学か?まるで、修学旅行生のように屈託がない。 一方、きびきびと動き回り、自分の感情を出さない永平寺の僧たち。 彼らにとって、ここは修行の場。 同じ僧徒として、両者のあまりの落差に、雲水のなんたるかを思い知らされた気がする。

永平寺で見たかったものがある。
まだ母方の叔父が元気だった頃、母の姉弟3人でここへ母の父母(私の祖父母)の位牌と遺骨を納めに来たはず。「どんな所なのだろう。」

祠堂殿に足を踏み入れると、金色の位牌群が目に飛び込んできた。その数の多さに圧倒される。 ここで永遠の眠りについているかと思うと、胸がいっぱい。
    
織田信長禁制状とそこに押された天下布武の朱印

最後は、聖宝閣と呼ばれる宝物館。 道元の直筆など文字通りお宝が展示されているが、中でも織田信長が永平寺に出した禁制三ケ条に目も心も奪われた。 この禁制状により、永平寺は「軍勢の乱妨狼藉・山林の伐採・放火乱暴の禁止」など一切の保護を信長に約束されたのだ。 この禁制状には「天下布武」の信長の朱印が押印されているではないか。 あまりの感動と興奮と感激で、しばらくはガラスケースにヘバリ付いていた。 ここでこんなお宝に巡り合えるとは。
早めに敦賀へ。
11/09/29 敦賀ヨーロッパ軒

ソースかつ丼@840円

「敦賀に着いたら、まずソースかつ丼を食べるべ。」家人との申し合わせ。

その歴史を紐解けば、1912年、高畠増太郎がベルリンでの料理留学後、 ウスターソースの味を日本人好みに変えて、ソースかつ丼を作り出したのだと。

オーダーは、家人が名物・ソースかつ丼で、私がパリ丼のハーフサイズ・ミニパリ丼。 まずは、お茶が入った金色のヤカンが運ばれてきた。 何と、ヤカンごと置いて行ったではないか。 お茶好きな家人は、大喜び。

次のサプライズは、ソースかつ丼。 カツのボリュームが、尋常ではない。 ために、丼の蓋が斜に乗っかる。 正しい食べ方は、蓋の上に一旦カツを移し、一枚づつ丼に乗せて食べていくのだそうな。 ここのかつ丼は、薄肉のカツを甘ソースで絡めてアツアツのご飯にのせたもの。 サクっとしたカツの食感が、癖になりそうだ。 このシンプルだからこそ、カツとソースの旨さが一層ひきたつ。まさに、目から鱗!

ちなみに、パリ丼と言うのは、ミンチかつ丼のこと。 名前の由来は、創業者がフランスへ行った時に作ったメニューだから。 ソースかつ丼の次の、人気メニュー。 熱々の肉汁が口の中に広がる。幸せ。
11/09/29 気比神宮

気比神宮は、大宝2年(702年)建立の北陸道の総鎮守。 後年、米軍により焼失に合うも辛うじて残った大鳥居が、 日本三大木造鳥居として国の重要文化財に指定されている。

敦賀には、三大がもう一つある。 1934年に国の名勝に指定された三大松原のひとつ・気比松原。 夏は海水浴場として賑わう。 また、400,000㎡の土地には17,000本余の松があるそうな。 9世紀には、近くに渤海使接待施設として松原客館が置かれた。

渤海とは、8世紀頃、高句麗の遺民とも言われる大祚栄により、 朝鮮北部・ロシア沿海・中国東北部に建国された国である。 使いとしての渤海使が、最初は軍事目的で後には交易のために、 冬の季節風を利用して度々この気比の海岸にやってきた。 渤海は大和朝廷に対し朝貢貿易の形態を取ったため、 日本側は渤海からの貢物に対し、その数倍の貢物で応える義務が生じ、 その経費が朝廷に重くのしかかるようになる。 渤海使の管理を担当したのが、他ならぬ気比神宮。当時、渤海使に憑いていると信じられていた悪霊を祓うため、である。 見張っている様に大鳥居が海の方を向いている。 ただ、財政的には招かれざる客でも、渤海使は文化人が多かったために、 文化交流により有形無形の多くのモノを残したことも又事実。

気比神宮境内には、摂社としてツノガアラシトを祀る角鹿神社がある。 日本書紀によれば、朝鮮半島の王子・ツノガアラシトが32年頃敦賀にやってきた。 王子の頭には、角があったと。 ゆえに人々は王子のことを「角額の人」と呼び、やがて角鹿と記す様になった。 角の正体は、冑か?ツノガアラシト現代語に変換すると。 敦賀という地名は、ツノガアラシトから名づけられたとする説が有力。

海の向こうにあるのは、朝鮮・中国・ロシア。 海路、季節風に乗り運ばれてきたものは、状況に応じて少しづつ日本風にアレンジされて、日本に根を下ろした。 飛鳥時代の建築や芸術の多くは、渡来人により作り出されたものだと言う。 神社も又、古いものは渡来人たちが自分たちの先祖を祀るために創ったものが多いそうだ。 神道は、日本の神と朝鮮の神との融和なのだとも。 彼らとの接触がなければ、日本の神社は今とは全く別なものになっていたのかも。

遠い遠い昔、すでに活発なる交易や国際交流が行われていた。 この街に刻み込まれた歴史は、ずしりと重い。
11/09/29 シンボルロードモニュメント

宇宙戦艦ヤマト

気比神社から敦賀駅まで、こんなモニュメントに数多く出会った。

東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、 敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした。 1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、 「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを 敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置しました。                                 (紹介文より)

はるか昔から、海の向こうの国々との交流を重ねてきた敦賀。 銀河の惑星たちとを結ぶ銀河鉄道のステーションであっても不思議ではないような気持ちが湧いてくる。 銀河鉄道に乗って、永劫に生きられる機械の体が無料でもらえる星へ行かねば。 気分はすっかり銀河鉄道999。

後日譚
テレビをつけていたら、この敦賀のモニュメントが大写しになった。 電力会社からの原発マネーが投入されているのだと。 現在の敦賀、その一面である。
閑話
北海道と福井の深い縁

賀の街を夕闇がつつむ。 そろそろ、フェリーターミナルへ行かなくちゃ。 と心が急くのは、足回りが非常に不便なため。 このバスを逃したら、フェリーに乗りそびれる可能性も。 駅前で待ちくたびれた頃に、やっとバスが来た。 乗客は私と家人。&乳児を抱いた若い夫婦の計4名。 フェリー利用者は、車かバイクなど自前の足を持つ人がほとんどで、バス利用は小数派なのだ。

バスは、敦賀駅を後に走り出した。話好きな運転手さんが言った。 北海道と福井は縁が深いのだと。 明治の頃、福井県から北海道へ大量に移住したそうな。 屯田兵の募集に応じた、と言うことだろうか。 だとしたら、寒い北海道でさぞや苦労をしたことだろう。 次は、新幹線の話。 彼がいうに、「福井県民は、ほとんどが欲しいと思っていない。 県民は白けているけれど、財界は違うんだろうな。」大きな溜息をついた。 更には、米の「こしひかり」の話。 「こし」は越で、越後ではなく越前のこと。 「こしひかり」は、福井県が作り出した米なのだと。

そういえば、東京の電車の中吊りにこんな文字が躍っていた。 「米の名は、カタカナは国の機関で開発したもので、ひらがなや漢字は各自治体の機関で開発したもの」。 知らなかった。 1991年以降は自由に名前がつけられるようになったそうだ。
12日目   フェリーにて帰道 編   今日の歩数=9.656歩  晴
11/09/30 新日本海フェリー・すずらん

敦賀港1:00発→苫小牧・東港着20:30のフェリーに乗船。1等乗船切符@18500円。 フェリーターミナルで乗船を待つうちに、日付が変わった。 部屋に荷物を置き、すぐに風呂へ。後は寝るだけ。

今回も乗客のなんと少ないことか。 2等の大部屋でもゆっくり出来たかも?とも思うが、一度個室を利用すると癖になりそう。

さて、朝。暇なので、レストランを覗いてみた。 モーニングセット@500円は、他のフェリーのレストランよりも単価が低い。 とはいえ、パンとゆで卵とコーヒーという至ってシンプルなメニュー。
まとめ

生まれて初めて足を踏み入れた日本海の街は、 「どんより鉛色の空と海がひろがり、経済的には恵まれないが素朴な人々が住む所」 と言う先入観を見事に払拭するものだった。 空はどこまでも青く高く、海は透明度高いマリンブルー。聞くと見るとは大違い。

先日、某大学が「県民が幸せと感じる“幸せ度”の高い県」を調査した。 1位が福井県で2位が富山県で3位が石川県。 日本海側の県は、旧経済企画庁の「豊かさ指標日本一」でも上位を占める常連である。 1世帯当たりの貯蓄額が他県よりも高く、離職率・失業率が低く、出生率や持ち家率が高い。 未婚率が低く、福利厚生が充実し、 犯罪や事故が少なく安心して暮らせる県と評された。

今回の旅は、東日本大震災から半年後。 「孫のことを考えると、原発はどうなんだろう。」と言った松本の蕎麦屋の女性の言葉が、耳に残る。 フェリーターミナル行きのバス運転手さんによれば、明治のころ福井から極寒の北海道へ大勢移住したのだと。 当時、福井は決して豊かな所ではなかったという証左。 今、この豊かさはどこからやってきたのか。 敦賀駅前のモニュメントが、原発マネーに拠るとの報道が流れた。 一たび事故が起きれば全てを失う危険を孕む原発によって、今日の繁栄が成り立っているとは思いたくない。 砂上の楼閣の上に人の幸せを築くのは、危うすぎる。

俳優・伊勢谷友介氏が、福島県飯館村の子供たちに原発のために催行不能となっていた卒業式をプレゼントした。 彼が、子供たちに言った。 「原発事故を起こしてしまった大人のひとりとして、皆さんに謝りたい。」。 たった1度の原発事故により失ったものは、余りにも大きい。 そして、復興や事故原発の処理などは、気の遠くなる長い時間とお金を要する。 それらを、我々が生きている間に完結させることは、到底不可能だ。 私たちは大きな借財を、一片の恩恵に浴することすら無い子供たちに、その先の子孫に回す。 子供たちにとって、こんな理不尽なことはない。 この国に生まれおちた子供たちへ、まっさらな人生を用意してあげられない責任。 大人のひとりとして、心から申し訳なく思う。
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