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2008京都 Vol.1からのつづきです。

 2008年京都旅行記 Vol.2

日本発の両切り煙草を発売した「村井兄弟商会」跡・・・東山IVYで自炊生活


旅程
6日目 叡山電鉄
貴船神社
木の根参道・鞍馬寺 魔王殿
鞍馬寺
由岐神社
7日目 平等院
伏見百景
清酒・神聖の 白菊水
月桂冠大倉記念館
8日目 寂光院
三千院
下鴨神社
9日目 京都国立博物館
10日目 京都市立歴史資料館
11日目 超高速フェリー「はまなす」
まとめ


食べたところ ひろ文 納涼川床・流れ素麺
真手打そば処ながの 茶そば&そば稲荷
からふね屋珈琲店 日替りランチ


6日目
昨夜の雨をまだ引きずっているような、怪しい空模様。雨の晴れ間の今日は、「貴船口で電車を降り鞍馬」コース へ
08/08/31 叡山電鉄

デオ712

「貴船・鞍馬」方面なら、叡山電鉄に乗るのが一番。 しかし、叡山電鉄はJRや京都市営地下鉄に直接乗り入れしていないので、ちょっと不便。さて、まずは叡山電鉄の基点「出町柳」へ向かう。駅前に中年ご婦人の団体がひと塊りになって話に花を咲かせ、時折爆笑していた。 今日の私は、貴船→鞍馬の予定。

車窓に展開する「こぼれんばかりの緑あふれる風景」は、昔、電車の窓越しに見た田舎の景色に似ている。乗客減と聞いていたが、今日の乗客率は70%程度。思いのほか、好調な様。と思ったら、本日は日曜日だった。 景色に見とれるうちに、件の団体さんがどやどやと降りていった。駅名は「岩倉」。

叡電の車両は、「デナ」「デオ」「デト」という形式称号が使われていて、「デ」は電動車の略で、「ナ」が中型(なかがた)、「オ」が大型の略称。 現在、走っているのは、デオ600形・デオ700系・デオ800系・デオ900形。 最新式のデオ900形の登場により、運賃箱などワンマン機器を装備していないデオ600形が、今年11月1日にラストランという事になったそうだ。 なお、デオ600形は現在2両しか現存しない。これはファンならずとも垂涎。やじうまの私も、一度は見てみたい。
貴船街道

貴船口駅から貴船川にそって上っていくと、やがて両脇に川床料理の店が立ち 並ぶ貴船街道が展開する。
08/08/31 ひろ文

隣席の若者

つゆ&温泉卵

京都市左京区鞍馬貴船町

貴船で「流し素麺」と言えば、この店の他にもう一軒あるが、そこは他の料理とのセット。 なので、この店の人気は凄い。@1,200円。

前夜の雨で川床の水はけを整えなければならず、開店時間が30分遅れの10:30となった。 私と家人が店頭に辿り着いたのが、10:00。前には3人組の若者グループが1組いて、私たちは予約番号2。

30分待ち、いよいよ滝と対峙して置かれた座布団に案内された。涼しくて、冷蔵庫にすっぽり入った気分。 なんでも、京都市内の気温に比べると8~10度低いそうだ。 加えて、川床の座敷と違い、こちらは全員滝に面しているので、ある意味ベストシート。待望の流し素麺が始まる。 右と左それぞれ2本づつ計4本のレーンから素麺が流されるので、1度に4組が挑戦。 店のサイトに「お腹がいっぱいになるとは限りませんので」というような事が書かれていたのを思い出す。 「流れくる素麺、逃してなるまじ」。写真は、左から流れるレーンの予約番号1の若者で、私はその隣。 彼らが手前のレーンで、私と家人は向こう側のレーン。

いよいよ、スタート。素麺が、一口づつ丸まって流れてきた。 3人組なら最初の塊を1番近い人が食べ、次に流れてきた塊を2番手が食べれば特に争奪戦にはならないはず。 が、隣の若者組は、法則を理解していないようだ。 しかも、あれこれと戯れている間に箸にも触れず取り損ねた素麺が、するすると踊るように目の前を通過する。 ここの掟によれば、一度通り過ぎた素麺は2度と戻らない。 ひょいと見れば、下に座った家人が若者グループの逃した素麺を、しっかりいただいているではないか。 家人の隠れたる一面を見た。

食べまくっているうちに、終わりを告げる赤い麺が流れてきた。 チソの香りいっぱいで、お替りを願いたいほど旨い。 若者組はこれも食い損ない、家人の胃袋へ。赤い素麺の行方を追う若者組の視線と出会った。 「ごめんね」と、思わず謝ってしまった。 だって、開店待ちで並んでいる間に「明日は仕事だな」 「お、後、800円しか残ってないぞ」と言っている彼らの声を、もれ聞いていたから。 若者たちは、にっこり会釈を返してくれたけど。 ちなみに、1人2把相当流しているとのこと。充分に、お腹いっぱい。 そして、ゲームを楽しんだ気分。

※この後、貴船神社を回って鞍馬への入口へ戻ってきてみれば、ひろ文前に「流し素麺は2時間半待ち」という札がかかり、長蛇の列ができていた。
流し素麺の初体験も無事とげて「さて、歩くぞ」と、なれば、「ひろ文」を出た所にある貴船神社・中宮が手始めになるのは地形の必然。 しかし、どうやら本宮・中宮(結社)・奥宮の三社には参詣の順番があるらしい。 何も知らない私と家人は、足のむくまま胃袋のむくままに、ひろ文→中宮→奥宮→本宮とまわってしまった。 正しい歩き方は本宮→奥宮→中宮。という訳で、せめてここでは正しい順に行くことに。


08/08/31 貴船神社
貴船神社・本宮

水占い

全国に約500社の御分社を持つ貴船神社の総本宮がここ。心願成就・縁結び・家内安全などのご利益があるとされる。

一番はじめに参拝する本宮は、奥宮から天喜3年(1055年)に移築されたもの。 鳥居をくぐって本宮への石段を登る。その脇に立ち並ぶ赤い行燈が春日行燈。 朱塗りでただそこにすっくとたっている、それだけで神秘的だ。

本宮の御祭神はタカオカミノ神という水の神様。人気の水占いを体験してみた。@200円。 家人が近くで写真を撮っている間に、私が2人分を選んで一枚を家人に渡した。 水占いは、各項目の部分は真白。 それを傍にある水占い斎庭の水に浸すと、あら不思議。文字が浮かび上がってきた。 私は大吉。家人が末吉で「旅行・止むるべし」。って、すでに旅行中だよ。 2人分を斎庭に並べると、私の大吉運が家人に吸い取られそうな嫌~な気分。

貴船神社・奥宮

船形石

三社詣の二番目は、元々の本宮だった奥宮。本宮から杉並木が連なる奥宮参道を進むと朱塗りの神門が見えてくる。 御利益は心願成就。

5世紀初め、玉依姫が黄色い船で淀川から貴船川をさかのぼり、着いた場所がここ貴船神社だと伝えられている。 姫が乗ってきた黄船を隠すために小石を積み上げたとされているのが、船形石(ふながたいわ)。 社の横に生えているのは、二本の枝が連なった杉と楓の連理の木。 夫婦・男女の仲がよい例えとされる。

ここまで来ると、川床料理店もなく、静かで厳粛な空気が漂う。 参道の両脇を覆う老杉たちの息遣いが聞こえて来るようだ。 本殿の下には大きな龍穴があり、 「物を落とすと、俄かに曇り空になり、龍穴から激しく風が吹きあがる」という言い伝えがあるそうだ。 「おい、龍さん、出て来ておくれ~」

貴船神社・中宮(結 社)

相生の杉

本宮と奥宮の中間に位置するため「中宮(なかみや)」とも呼ばれる、三社詣で最後にお参りする社である。 祭神は、縁結びの神として知られている磐長姫命(いわながひめのみこと)。 境内のススキを結んで祈願すると願いが叶うとされているが、今はススキを結ぶ人はおらず、 代わりに「結び文」を「結び処」へ結べばよい。 女流歌人・和泉式部も貴船神社に参詣し、夫の愛を取り戻したという。

昨年、新京極で和泉式部の墓に遭遇した。 彼女は、菅原道長から「浮かれ女」と評された程の華麗なる男性遍歴の持ち主。 そんな女性が夫との仲を回復するために神社へお参りなんて、するかな?神頼みする前に身を慎む方が先だろう。 なんだか、橋田須賀子のドラマで嫁に小言を垂れている姑の気分。

「相生の杉」は同じ根から生えた2本の杉で、樹齢1000年。 夫婦共に長生きという意味を持つそうだ。 同じ根から何故2本生えているのか、解らない。 枝だろうか?1000年もの間、ここでこうして立っていたとすれば、 ひょっとすると和泉式部の参詣を2本寄り添って見ていたかもしれない。

・・・遠いとおい昔のお話。
ここからは、貴船神社→木の根参道→魔王殿→鞍馬寺→由岐神社というハイキング・コース
08/08/31 木の根参道・魔王殿

木の根参道

「鞍馬寺西門」にて 入山料@200円を払い、無料貸出しの杖を借りる。念のため。

石段を登っていくと、後は延々と続く山道。降りてくる人に挨拶を交わし、忙しく足を動かすも、すでにバテ気味の私。 降りてきた母娘づれの2人に、声をかけた。 「まだ、この先、だいぶありますか?」。 母親は、小首をかしげ一呼吸置いて言った。 「あと、一息ですよ」 優しい笑顔に背中を押され、再び「奥の院魔王殿」をめざす。 にしても、一息って、どんだけ長い息なのだ?

奥の院魔王殿に辿り着き、一休みして又、山道を歩く。 と、思わず足が止まった。 木の根が地面をくねくねと這いまわっているのだ。 流木が横たわっているようでもあり、廃木を敷いたようでもある。 それにしても、凄い光景だ。

「木の根道は、固い地質のため杉の根が地中に入り難く、地表を這っている珍しい姿です。 木の根は樹木を育て命を支える大切な働きをしています。 できるだけ踏まないよう、やさしく接してください」(説明板より)

木と木の隙間を、縫うように歩を進める。これが、結構たのしい。

木の根参道を抜けたあたりで、山伏が吹く荘厳な法螺の音が聞こえてきた。 「さすが、鞍馬山。心憎い演出」と関心していたら、若い女性を伴った恰幅のいい壮年の男性が、 小脇に大きな荷物を携えてやってきた。 「この先の道は、雨で濡れてましたか?」と家人が聞くと、 男性は「さぁ~、私は別の目的できていますから」と気のない返事を残し、去った。 程なく、又してもあの法螺が今度は近くから聞こえてきた。別の目的って、法螺吹きだったか?
08/08/31 鞍馬寺

本殿金堂

京都市左京区鞍馬本町1074 義経でお馴染みの寺。火祭りは有名。

宝亀元年(770年)鑑真の高弟・鑑禎がこの地に毘沙門天を収めて開創したと言われる。 敷地・ 42万㎡のほとんどが原生林である。 鞍馬寺は、昔、牛若丸が天狗に武術の手ほどきを受けた、という言い伝えでも知られている。

境内の広場に足を踏み入れた。何という壮大にして荘厳な景色なのだろう。 まるで、今も牛若丸が高下駄を履き、この山々を飛び歩いているようだ。

金堂前には、丸く敷石が施されている。 これは「霊気発祥の地」というのだそうで、 観光客風の人が腕組みをし首をひねりながら円の周りをぐるりと歩いて去って行った。 もう一つ境内にあるのが「翔雲台」。 こちらは、平安京の擁護のため本尊が降臨した場所。 「ストーンサークルのような敷石」と「本尊が降臨した台」が厳然と存在しているのが、 この古色蒼然とした鞍馬の景色に似合っているようで、いないようで・・・。 今次元と霊次元、現代と伝説の時代とが勝手気儘に共存しているような、そんな空間。

山側から広場の赤い柵ごしに、天狗がひょいと顔を出した・・・なんてナ。
08/08/31 由岐神社
 
参道脇の大杉

北方の鎮めという役割を担い、京都三大奇祭「鞍馬の火祭」の祭礼で知られる神社。

由岐神社の見所は、拝殿と大杉。 拝殿は、鳥居を潜るとすぐの所にある。 実は、階段が通り抜けている拝殿というのが特徴で、割拝殿形式と言うのだと。 舞台づくりの桃山建築で、 本殿の石造狛犬ともども国の重要文化財。 その通路を通ると由岐神社・本殿に辿り着く。 仁王門から多宝塔まで、日本では唯一の「宗教法人が経営するケーブルカー」(@100円) が通っているので、これを利用するのも良し。

何気なく、由岐神社の公式ページを開いてみて、びっくり仰天。 何と由岐神社のライブ映像を配信しているではないか。 本殿前・大杉付近・鳥居付近・境内の四か所。という事は、私が行った時も映っていたという事か。 慌てて身づくろいをしたが、後の祭り。 気を取り直してよく見れば、画像の中に人っ子1人いない。 「な~んだ、ライブとはいえ、カット編集した映像なのね」 と安心して境内をクリックしたら、 画面の中に若いカップルが登場し、女性が熱心に手を合わせる傍らで、男性は所在無げにあたりをぶらぶら。 「これは、間違いなく撮られていることを知らないな」。 何だか監視カメラみたいな気がしないでもない。

そこで、はたと気がついた。
10月22日の鞍馬の火祭りは由岐神社が会場。 画像は粗いが、PCでリアルタイムで見られるということだろうか?

鞍馬駅についたのは、鞍馬山越えの出発点・鞍馬寺西門を出てちょうど2時間30分後だった。 ということは、流し素麺・ひろ文で、あの時、最後尾に並んでいた人が、今やっと素麺にありついている・・・・はず。
7日目
雨があがったので、宇治へ足をのばすことにした。
08/09/01 平等院

鳳凰堂・中堂の阿弥陀如来坐像

京都府宇治市宇治蓮華116 拝観料[平等院&鳳翔館@600円、鳳凰堂@300円)

現在の平等院は、9世紀末、左大臣嵯峨源氏・源融(みなもとのとおる)の別荘だったもの。 彼は光源氏のモデルとも言われている。 その後、宇多天皇→源重信(天皇の孫)→摂政・藤原道長と所有者が変わり、道長の息子・藤原頼通が別荘から寺院に改めた。 現在は、浄土宗・浄土院と天台宗・最勝院の2つの寺院の共同管理となっている。

長い参道の先にある平等院・西門では、1400年前の種から開花した蓮が、長い眠りから覚め優美な花びらを広げていた。 現世に作り上げた極楽浄土の世界、そのままに。

平等院ミュージアム鳳翔館は、平等院の敷地に建つ博物館。
館内には鳳凰堂から移動した木造雲中供養菩薩像が26体保存されている。 笑いながら雲に乗っている菩薩像や楽器を奏でる観音菩薩像などユーモラスで楽しい。 実は、平等院の屋根の上の鳳凰や梵鐘の本物もこの鳳翔館に展示されている。 目の前で見る梵鐘は、天人、獅子、唐草文様などの細やかな模様が全体に彫られ、繊細でしなやか。 天下の名鐘の中でも「姿、形の平等院」と言われるのが頷ける。 本物の鳳凰の方は、精巧な作りで眼光がするどく、その迫力に圧倒される。 屋根の上で毎日風雪に晒されながら、よくぞここまで残ってくれたものだ。

鳳凰のまわりが、俄かに賑やかになった。 見れば、5・6人のグループの中の一人が、他のメンバーに鳳凰の尾の説明をしていた。 「10円玉に刻まれた鳳凰の尾は、上を向いているのがメスで下を向いているのがオスなんだ。」と力説。 「本当だってば、ほんとなんだからぁ。」と、博識の彼は、懸命に言い募るのだが・・・。 調べてみると、昭和26年に作られた周りにギザギザのある10円玉に、尾が上を向いているメスがあるという。 すぐに財布をかき回して10円玉をチェックしたが、そんな古いのは持っていなかった。 ないとなると、見たい気持ちが一層募る。
08/09/01 真手打ちそば処ながの

茶そばセット
(茶そば&そば稲荷)


そば稲荷

京都府宇治市宇治蓮華25

昼は平等院の表参道「真手打ちそば処ながの」で、宇治茶を混ぜ込んだ「茶そば」を食べることにした。 狭い店内の壁には、関西のメディアにこの店が取り上げられた時の新聞記事のコピーが貼られている。 ちょうどの時間に出くわすと、店の窓際でそば打ちをしているのが見られるらしいが、作業は終わっていた。

「何を頼もうかな?」と、メニューを眺めまわす。 まずは、茶そば。 そば稲荷というのも食べたい。 茶そば@800円×2とそば稲荷@600×1を注文したら、店員さんが言った。 「そば稲荷、お2人で食べるなら、茶そばとそば稲荷がセットになった茶そばセット@1200円×1と茶そば@800円×1にした方がいいですよ。 そば稲荷は1皿3個で、セットに付くのは2個なのでお2人なら調度いいのでは」。成程、そういう手があったか。

そばに箸をのばした途端に、後ろの席の若い女の子が「おいし~い」と、歓声をあげた。 そば稲荷にかぶりついての一声。 その声にせかされ、稲荷を口に運んだ。 うまい♪一個じゃあ足りん、もっと食べたい!後ろ髪をひかれながら、茶そばに手を伸ばす。 麺にコシがあり、想定どおり茶の香り。鰹出汁のつゆが、食欲をそそる。


おいしい。
午後からは、一度行ってみたかった所・伏見へ。
08/09/01 伏見百景

酒蔵群群

伏見という地名は 「伏し水」から付けられたと言う。 川には豊かな柳の木が寄り添い、酒蔵群が連なる。 映画のロケにも、しばしば使われるそうな。水の郷にして歴史の町・伏見。

酒は水に含まれる成分や作り方により、微妙に味が変わる。 伏見の酒は、カルシウムとマグネシウムを程よく含んだ中硬水で、なめらかで淡白な風味。 他方、灘(兵庫県)の酒はミネラルをたっぷりと含んだ硬水を使用した辛口タイプ。 このため、伏見の酒を女酒、灘の酒を男酒と呼ぶそうな。

酒造りに適した伏見の水ではあるが、全く別の視点でこの水を活用したのが豊臣秀吉である。 この川が淀川の本流へと合流する地の利に目をつけた豊臣秀吉は、京と大阪を結ぶ一大プロジェクト「淀川水運」を立ち上げ、 米を三十石積める「三十石船」を運航させ、大阪の経済発展を図る。 これが鉄道が敷設されるまでの主要交通手段となり、京⇔大阪の重要な生活手段となった。

町を歩くと、「竜馬通り」や「大手筋商店街」に出くわした。 地方の商店街そのものなのに、どことなく元気なのは伏見商人の心意気だろうか。
08/09/01 清酒 ・神聖の白菊水

順番を譲ってくれたご婦人

次の訪問地は、先ほど街角の立て看板でみた「月桂冠大倉記念館」。

その途上、「白菊水」という御神水を無料で提供している水汲み場の前に出た。 「鳥せい」という焼き鳥チェーンを全国展開している清酒・神聖の酒元・山本本家が、酒造りに使っている水とのこと。 バッグからペットボトルを取り出して、列の後尾に並んだ。 前の2人は500mlペットボトルを詰め込んだ段ボールを2・3箱、脇に置いている。 しかも、順番が来ると、1本づつペットボトル本体と蓋を水洗いしてから注水を始めるので、頗る効率が悪い。 何故に大容量の容器を持ってこないのだろう? 北海道にも有名な湧き水「羊蹄の水」があるが、大量に持ち帰る人は、タンクで汲んでいくのが普通。 県民気質(どちらも県ではなく道と府だが)の違いか?

空の350mlのペットボトルを握りしめていたら、前のご婦人が順番を譲ってくれた。 早速、御神水を飲んでみる。う・ま・い。言うまでもないが、酒ではない、水。 水に味あり、うま味あり。自然の底力を見た。
08/09/01 月桂冠大倉記念館

月桂冠大倉記念館

京都市南浜町247 入館料@300円。お土産に月桂冠のワンカップがつく。 見学後は吟醸酒・プラムワインの試飲あり。

柳並木に白壁土蔵の酒蔵群、このあたりを歩いていると、「船がついたぞ~」という声と、 それに呼応し家々から飛び出してくる往時の町の人々の姿が、脳裏をよぎる。 その頃、桃山城では秀吉が宴を繰り広げていただろうか?

月桂冠大倉記念館では、貴重な酒造用具類を保存し、伏見の酒造りと日本酒の歴史を解り易く紹介していた。

「白菊水」の水で味をしめた私の興味は、水。館内に入ると中庭に目当ての水「さかみづ」(栄え水。古くは酒の異名) が、あった! どれどれ。いっぱしの「利き水師」(そんな言葉あるのかな?)よろしく、 備え付けのぐい呑みで口へと運ぶ。「うまいけど、白菊水ともちょっと違うな」 あくまでも私の主観でいえば、「白菊水」ははんなりまろやか。 対して「さかみづ」は、円い中にもリンと一本芯が通っているような。 男酒・女酒にならって男水・女水という言い方をすれば、「白菊水」が女水で「さかみづ」は男水かな?

水道の蛇口レバーを押して瞬時に水が手に入る日常では、水はあるのが当たり前。 まるで空気のように。有難や。
8日目
また又 雨。ならば、今日は雨が似合う「大原」散策。
08/09/02 寂光院

諸行無常の鐘

京都市左京区大原草生町676

寂光院は、聖徳太子が開祖した天台宗の寺。 平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後、余生を送った「平家物語」ゆかりの寺として知られてい る。

「平家物語」の「大原御幸」によると、平清盛の娘・建礼門院(高倉天皇の中宮で、 安徳天皇の生母)は、壇ノ浦の戦いで平家一族が滅亡した後も生き残り、尼となって寂光院に隠遁。 舅・後白河法皇が平家一門と安徳帝の冥福を祈り、建礼門院を訪れた。 粗末な庵を前に愕然とした法王が、ふと目にした詠み人知らずの歌一句。
思ひきや深山の奥にすまひして、雲井の月をよそに見んとは
(このような深山の奥に住んで月を眺めることになろうとは思いもしなかったことです。)

歌の作者は、建礼門院その人であろう。 建礼門院(徳子)は清盛と正妻時子の次女として生まれ、 17歳の時、平家が朝廷内で強力な権力を得るために、11歳の高倉天皇の元へ嫁いだ。 母親同士が姉妹という従姉弟婚である。 24歳で王子(安徳天皇)を産むが、高倉天皇には他に想い人がおり、二人の関係は決して睦まじいものではなかったと言う。 加えて、父・清盛と舅との折り合いの悪さも彼女を悩ませた。 まもなく病弱だった夫・高倉天皇が亡くなり、徳子を後白河法皇の後宮へ入れる話が持ち上がるが、徳子はこれを強く拒み、出家して建礼門院となった。 と、すれば、大原御幸の二人の対面は、嫁と舅を超えて、どことなく生臭い香りが漂う。 まさに、政争の具として、男たちの野望に翻弄され尽くした人生であった。

今日も、大原に雨が降る。徳子の涙雨が・・・。
08/09/02 三千院

わらべ地蔵

京都市左京区大原来迎院町540

落人が世をはかなんで隠れ住んだ大原の地に、比叡山を降りた僧たちが修行の場を求めたのが、三千院の始まりと言われている。 しかし今は、桜・紫陽花・紅葉と四季折々の花々が咲き乱れ、人波が切れることがない大原一の観光スポット。 同じ大原の寂光院に比べると、賑やかで華やぎを感じさせる。

今日は折悪しく雨。「ここは、山の上ということもあり、冬などはとても寒いんですよ。 雪も降り、底冷えもします。 地面が凍って車もあがってこれず、冬用の車タイヤに交換するんです」と、 客殿でスタッフ女性が両の手をこすり合わせつつ教えてくれた。 「では、北海道と変わらないですね」と言いながら、私も着ていたシャツの襟元をかき合わせる。 昔はもっと寒かっただろう。世を捨て、この地に落ち伸びた心境は、如何ばかりであったか。

院内を散策して遭遇したのが「わらべ地蔵」。 手前のわらべは、腹這いになって足をばたつかせるの図。 緑一色の庭園内に突如現れた首から上の地蔵にびっくり仰天。しかし、 そのあまりに穏やかな表情につられて、思わずうっとり。 どんな経緯で、ここにあるのだろう? 地蔵はそれからの長い日々、何を見てきたのだろうか?思いは尽きない。
08/09/02 下鴨神社

えとの社

京都市左京区下泉川町59 拝観無料、大炊殿の特別拝観@600円。世界文化遺産。

下鴨神社は京都を流れる鴨川と高野川に挟まれた三角地帯に位置し、正式には賀茂御祖神社という。 上賀茂神社(上賀茂別雷神社)とともに、豪族・賀茂氏の氏神を祭る京都最古の神社である。

境内の糺の森は、東京ドーム3倍の広さで古代山城北部が森林地帯であった頃の生態が保たれている貴重な森林で、国の史跡。

毎年5月15日には”平安絵巻”のような「葵祭り」が、御所からここ下鴨神社を経て、上賀茂神社へと繰り広げられる。 「石清水祭」(京都・八幡市)、「春日祭」(奈良)とともに、朝廷から勅使が派遣される3大勅祭の一つ。 また、流鏑馬、御蔭祭などの数々の伝統神事が行われる。

糺の森を歩けば古代へ、楼門をくぐれば平安へと、心はタイムスリップする。 帰り道、もと来た道を戻って「奈良の小川」の前まで来ると、若いカップルが川の水で手を浄め、 小さな手製のお弁当箱を仲良くつついていた。 そういえば、ジョギングをしている人もいる。 ここ下鴨神社は、拝観無料なだけに「市民の憩いの場所」として愛されている。 古代と平安の歴史の地で、今も歴史は刻まれ続ける。それが、1人1人の思い出という名の歴史であるのも、又、素敵。
9日目
「その町を知りたければ、まず博物館へ行け」と言ったのは誰だったか?
08/09/03 京都国立博物館

特別展示館前 ロダン・考える人像
(鋳造作品)
世界に20数体ある本物の中のひとつ。
東京上野の西洋美術館にもある。

京都市東山区茶屋町527  入館料@500円  京阪電車・七条駅そば・三十三間堂の横。

入口に立つと、17世紀フランスのルネッサンス・バロック様式をもとに設計された西門と、 その隙間から垣間見える旧・本館が醸し出す優美さに圧倒される。 広い庭では、野外展示もされているが、 今日は時間がないので中展示に絞ることにした。

展示は、さすがに凄いものが並んでいる。 と、造詣浅き私でもそう思う。精通した人が見れば、垂涎ものだろう。 昨年、訪れた永観堂で「山越阿弥陀図」が国立にあると聞いたので、見れるかも? と淡い期待を抱いていたが、またしても空振りだった。

私の一目惚れは、曽我蕭白の「達磨図」。カッと見開いた眼に、しびれた。 解説によると「刷毛や掌で一気に描く。」のだと。 曽我蕭白の画風は一風変わっていて、美人は醜く、子供は可愛くなく、という全く逆表現をする「ひねくれもん」。 そのため、江戸時代の画史において、「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた。 面白い。

前出の解説文を書いているのが、同館文化資料課長の狩野博幸氏。 氏の解説やコピーは、鋭くてユニークだ。 以前、特別展示で曽我蕭白展を開催した時のキャッチコピーが「円山応挙がなんぼのもんじゃ」。 高台寺・百鬼夜行展での円山応挙「幽霊の図」が頭に浮かぶ。 「こんな風に言われちゃ、円山応挙もあの絵の幽霊のようにげっそりしちゃうよな」と私は一人にんまり。

からふね屋珈琲店

日替わりランチ@700円
デミグラスソースハンバーグ+ライス

+200円で食後のコーヒー

京都市東山区茶屋町527 京都国立博物館内

建物は、窓が総ガラス張りで近代的でシャープ。 京都では有名な珈琲店で、ダッチコーヒーがウリなのだと。 日替わりランチと食後のコーヒーを頼んだ。 デミグラス好きな私に、このハンバーグは満足。コーヒーも美味しかったし。

隣の席のご婦人は、ゆったりと文庫本を広げている。これまた、良きかな。

一方、広い庭では、新郎新婦の写真撮影が行われていた。 博物館を借景に、最高のシチュエーション。 こうしていると、時間が止まっているような。 静かな時間空間の中にいつまでも浸っていたい気分を振り切って、私と家人は、展示の続きを見に戻った。
10日目
昨日の博物館が面白かったのに味をしめて、今日は歴史のお勉強。
08/09/04 京都市歴史資料館

京の七口
初めは十口あったとも言われている

京都市上京区寺町通荒神口下る松陰町138番地の1

京都御所の東隣に位置し、資料館の南隣には同志社大学創始者・新島襄の新島会館と旧邸がある。 前を通った時に「しめた。お昼に旧邸を訪ねて、隣の会館で昼食」と、 張り切っていたのだが、その日、旧邸は定休日。 会館にはレストランがなく、期待のランチは霧消した。

さて、京都歴史資料館。
前身は京都市史編纂所で、 京都市編纂作業を通して市民から寄贈・寄託された多くの古文書などが所蔵されている。 これらの保持管理、さらなる収集と調査研究が主なる役割で、 史料の閲覧、展示、歴史講座の開催など市民への歴史広報なども重要な役目。

1階奥は映像展示室。京都の歴史、祭礼、風物などをわかり易く解説した映像作品40本(各15分程)があり、 その中から好きな映像を見ることができる。 中でも、秀吉の京都のまちづくりが興味深い。 秀吉は、ほぼ正方形の区画であった平安京の条坊の一町の間に南北に道を通し、 短冊形とした町割りを行って、正方形の中央部分も行き来が容易となる様にした。

さらに、京の中心部周囲約23kmを土手や石垣で取り囲む御土居を作り、都の防備と鴨川の氾濫の対策とした。 というのは表向きの理由。その実は、京都御所や二条城を土手や石垣でぐるっと包囲し、簡単に出入りが出来ないようにしたのだ。 目的は、御所にいる天皇。秀吉が権力を掌握しているためには、天皇を手の内に抱え込んで置く必要がある。 御土居を作る事で、天皇を他の実力者から隔離したのである。御土居は、いびつな楕円形で、京の中(洛中)と外(洛外)を分ける境となる。 これでは「陸の孤島」状態。そこで、洛中と洛外との連絡口として、各街道につながる「京の七口」と呼ばれる出入口を設営し、わずかな風穴をあけたのだ。

「露と落ち、露と消えゆくわが身かな。 浪速のことは夢のまた夢」。 秀吉の命は、その寿命とともに確かに露と消えた。 御土居もまた徐々に取り払われて、今は数か所が残るのみ。 しかし。 秀吉がいなければ、今も京は平安京の真四角な碁盤の目のままだったし、洛北・洛南という言葉もなかった。 秀吉が京で見た夢のカケラの数片が、今に残る。

後日譚
新聞を広げると、「寺田屋騒動の舞台・寺田屋が鳥羽・伏見の戦いの戦火で焼失していたことを、 京都市歴史資料館が調査の結果、結論づけた」という記事が踊っていた。 あの時、1階展示室で開催されていた「テーマ展・京の火災図」が、それを決定づける資料。 私も、鳥羽・伏見の戦い直後のかわら板の中で、寺田屋が真っ赤に塗られているのを、確かにこの目で見た。 寺田屋の経営者は「当時の船宿そのまま。建物は一部が被災しただけ。 全焼してなくなった訳ではない」と主張しているが、 もしも全焼ならば「寺田屋に残る柱の刀傷は本物?それとも偽物?」。
11日目  
9/5(金)舞鶴港(00:45)→小樽港(20:45)
08/09/05 フェリー「はまなす」復路

洋室(1等ツイン)

往路は和室、復路は洋室を予約していた。 しかし、和室はデッキに面していて窓から海が見える部屋が多いが、部屋数が少ない。 一方、洋室は通路側に位置している部屋が多いので、窓から海が見えない部屋が多い。帰りは、どうしようか?

いざ、乗船してみれば、ちゃんと海が見える洋室だった。 しかも、往路の和室のようにデッキに大きな装置が鎮座しているでもなく、丸ごと海が見渡せて爽快。 どうやら、今日は乗客が極端に少ないせいで、幸運にありついたようだ。 洋室はベッドが2つ入っている分、部屋が狭くて窮屈なのでは?という心配は全くの杞憂に終わった。 リピートするなら、断然洋室がいい♪

この「はまなす」の大穴スペースが、前方展望室「ミルキーウェイ」。 カウンター席に座れば、窓から海が見えてのんびり読書も楽しめる。 なのに、何故かいつもガラガラに空いている。 乗客の多くには、屋外の後方展望室の方が人気なのだ。 もし、2等船室に乗船した場合には、貴重な寛ぎスペースとして一押し。
08/09/05 まとめ

東山地区の家々の前には
並々と水を満たした防火用のバケツが!

火事が多かった京の歴史のせい?

10泊11日の旅が終わった。 交通手段が違う、宿が違うで、昨年の旅行とは全く違う京都を見てきた様な気がする。

(フェリー):事前に想像していた以上に快適。 以前、苫小牧⇔大洗間を2等と2等寝台で何度か往復したことがあるが、 快適さにおいて1等個室が全く別モノの船旅であることを、痛感。 時間と財布が許すなら、1等個室だな。

(宿):自分の部屋に帰るような京都暮らしがしたかったので、最初からウィークリーマンション狙い。 探索線上に浮上してきたのが、今回お世話になった東山IVY。 建物は古いが、室内は広くて綺麗だ。しかも他の物件に比べると格段に安い。 周囲に建仁寺や豊国神社や方広寺や高台寺、もうちょっと足を伸ばせば祇園、八坂さん、三十三間堂などが徒歩圏内にあるので、 家人は朝の散歩を楽しんだ。 MNの近場には、まだまだ見ていない魅力スポットが沢山残っている。 また、行かなくちゃ。
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