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2007年関西Vol.1からのつづきです。

2007年 関西旅行記 Vol.2

永観堂でイケメン仏像と対面の巻

旅程
5日目 金閣寺
等持院
龍安寺
仁和寺
京福電鉄・嵐山線(らんでん)
渡月橋
和泉式部の墓
6日目 銀閣寺
法然院
安楽寺
●永観堂
蹴上インクライン(傾斜鉄道)
大坂城(大阪)
7日目 三十三間堂(京都)
●まとめ


食べたところ 湯豆腐七くさ(龍安寺境内) 湯豆腐
山源(永観堂そば) にしんそば・きつねそば
ステーキ主人公(樟葉駅・食堂街) ビーフかつ・ハンバーグ
且座喫茶(三十三間堂そば) 昼のメニュー・赤飯セット


5日目

金閣寺から衣笠山に沿って龍安寺前を通り、仁和寺へと続く道を「きぬかけの路」と呼ぶ。 宇多天皇が夏に雪を見たいと言い出し、山全体に白絹をかけて覆い、 雪化粧に見せかけたという故事からその名が付いたと言われている。

本日の予定。金閣寺を振り出しに「きぬかけの路」お寺めぐり。
07/12/10 金閣寺(鹿苑寺)

舎利殿と鏡湖池

世界遺産。臨済宗・相国寺派。開祖・足利義満。正式名を鹿苑寺といい、別称は金閣寺。

ぱっと眼に飛び込んできた豪華な金閣寺に、一瞬息を呑む。 舎利殿を水面に映す鏡湖池は、一点の曇りもなく澄み渡っていた。 もちろん、舎利殿は見事なのだが、池がその美しさを最大限に引き出している。 「一幅の絵」という言葉は、この景色のためにあるのだろう か。

方丈北側にある松が、京都三松の一つと言われる陸舟の松。 足利義満の手植えと伝えられている。 地を舐めるように這う姿は、見事。 又、夕佳亭(せっかてい)と呼ばれる茶室は、三畳敷の床柱。 茶席としては珍しいそうで、南天の木が用いられている。 と、ちょうど居合わせた修学旅行の引率の先生が生徒たちに説明しているのを、横から聞きかじってきた。

昭和25年7月2日未明、鹿苑寺金閣寺・舎利殿は放火により焼失。 犯人は、大谷大学生で寺の徒弟。 以前、水上勉の「金閣炎上」を読んだ。 名前の通り、鏡のような鏡湖池が、もう一つの舎利殿を水面に作り出す。 舎利殿は、シンメトリーならぬ上下対象となり、より美しく水面に映える。 反面、池に映る彼の姿は、消化できないコンプレックスや行き詰まりを抱えた現実の自分そのままに、 否むしろ、現実以上に救い様のないもう一人の自分となって、 澄んだ鏡面に残酷に映し出されたのではなかったか。 絶望が、彼の背中を押したのか・・・真相は未だ霧中。金閣寺は美しい。が、胸が痛む。

閑話・金閣寺から出た小路の先に「金閣小学校」を発見。 教科書に載る有名な地名が自分の学校名だったら、感動だろうな。
07/12/10 等持院

等持院・山門

臨済宗・天龍寺派。本尊・釈迦牟尼仏。 開祖・ 足利尊氏。足利尊氏の墓所として知られている。

地図を片手に衣笠の道をゆく。 賑やかだった金閣寺から来たせいか、訪れる人も少なく静謐。 池を見下ろす小高い丘に茶室・清漣亭がひっそりと建っていた。 「控え目にそっとそこにある」という風情が、この庭には似合う。 義政公好みと言われるが、この茶室から四季折々にうつりゆく木々や花々を見渡していたのだろう。 何という贅沢。 方丈側から見ると、茶室の後ろに本来見えたはずの衣笠山に替わり、立命館大学の高い校舎が頭を出していた。残念。

方丈の西側に建つ霊光殿には、中央に尊氏の念持仏を据え、達磨大師・夢窓疎石の像を左右に安置し、 その両側に足利歴代将軍の木像が13体ならんでいた。 数の多さに圧倒される。


最後の将軍・義昭は「手紙公方」と揶揄され、歴史上暗君の代名詞のように言われるが、手紙という手段で海千山千の大名たちを取り込み、 あの壮大な信長包囲網を作り上げたのは、他ならぬこの人。 鉄砲一つ構えるではなく、筆一本で信長への謀反を画策した、その才覚は捨てがたい。 義昭は、室町幕府・歴代将軍中もっとも難しい状況下に生まれ出た悲劇の将軍と言っても過言ではない。歴史に「もし」は無い。が、あえて言ってみる。 もし信長が、秀吉が、同じ時代に生まれ合わせていなければ、義昭の人生はどう転がっていたのか? しばし、思いを馳せる。

この寺では、作家の水上勉が小坊主として寄宿していた事があるそうだ。 方丈の廊下の板にそっと触れてみる。雑巾がけをする水上少年の姿が去来した。
07/12/10 龍安寺

龍安寺の石庭

世界遺産。宗派・臨済宗妙心寺派。本尊・釈迦 如来。開 基・細川勝元。

龍安寺は、枯山水の石庭が有名。 幅25メートル、奥行10メートルほどの広いとは言えない敷地に、 白砂を敷き詰めて15個の石を5ヶ所に点在させただけの単純構造の庭である。 規則正 しい箒の掃き目が美しい。15個の石は、庭をどちらから眺めても、 必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているとか。 しかし、中の部屋からはた だ1ヶ所だけ、15個の石すべてが見える位置があると言う。 私がどんなに目を凝らしても、14個しか見えないのだが。 石庭に面した縁側には、申し合わせたように一列に人々が並んで座っていた。 静寂の中で己と向き合うには、人が少々多すぎ、かしましすぎる気もするが。

茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張った石を、つくばいと言う。 ここのつくばいには「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれている。 真ん中の水を溜めておく部分を「口」として、左右上下の「五・隹・疋・矢」とそれぞれに合わせ、 「我ただ足るを知る」と読ませる。 徳川光圀の寄進。このつくばいが、レプリカだったとは。

「ない、ない」づくしでいささか消化不良気味。 お、いけない。「我ただ足るを知る」だったわ。人間が出来ていない私。

境内の南側に「鏡容池」があり、池の中には弁天島などの島がいくつか浮かんでいた。 と、小さなボートが島に接岸。庭師さんらしき人が島へ上陸するやいなや、木の手入れを始めた。 どうやら、往来には小舟を使っているらしい。風情があって、 どこか粋だ。お昼は境内の西源院・湯どうふ七くさ。
07/12/10 龍安寺・西源院 湯豆腐 七くさ

湯豆腐

龍安寺境内にある湯豆腐の店。

小さな門をくぐり、ししおどしの音が小気味良く響く庭を歩くと、別世界へ足を踏み入れた気分。 庭を見ながら食事をしようと多くの人々が思うのか、表庭側の席は早い順に埋まっていく。 私が行った時はすでに空きがなく、反対側の庭を見て湯豆腐を頂いた。裏の中庭もしっとりと落ち着いて、枯れた風情がある。 一面畳の和の空間が心地よい。そこここから英語が聞こえてきて、他の国にいるような錯覚も・・・。にしても、 外人客が多い。

湯豆腐は七くさという名の通り、麩・白菜・人参・椎茸・山芋・ピーマン・水菜の七種類の具が入る。 湯豆腐にピーマンは、珍しくはないか? 木綿豆腐と 聞いたが、キメが細かくて絹ごしのような印象。 ダシは、生姜が効いて美味しい。

しかし、これ程素晴らしい古都・京都の日本庭園での食事なのに、何故に食器がプラスチック? 加えて、お会計をするレジがないのが、混乱の元。店の人が、私の所にお茶を運び終え、ついと横にいたお客さんに言った。 「あ、お客さん。まだお金もらっ てないね」。 言われた方は「さっき、払いましたよ」 。「貰った?そう?あ、貰ったね」。 嫌な予感が走ったが、案の定、私の時も注文 した料理を運んで来る前に早々に支払いを要求し、 渡したお金を他のお客から受け取った分と一緒にしてしまい、 今受け取った額が解らな くなった模様。 「ええっと、今貰ったのは?」と私の顔を窺った。 忙しすぎて混乱しているのは、解るのだ。しかし、代金の徴収はスマートに願いたい。

このしっとりとした景色も座敷も、この一件ですっかり興ざめしてしまった。
07/12/10 仁和寺

仁王門

世界遺産。宗派・真言宗御室派。本尊・阿弥陀如来。 開基・宇多天皇。別称・御室御所。国宝・重要文化財多数。

龍安寺を出て、てくてくと歩いたら仁和寺の仁王門(重要文化財)前に出た。 重厚で立派な門前。両側の仁王像を、しばし見上げる。 「こっちが阿(あ)で、こっちが吽(うん)かな?」と家人と話していたら、 ちょうど居合わせた男性が「向って右が持国天、左が多聞天」と教えてくれた。

仁王門をまっすぐ進んで、右手に霊宝殿。 さらに進み、中門をくぐりぬけると、右手に五重塔。 各層の屋根の大きさがほぼ同じ、という珍しい塔だ。こちらも重文。 屋根のせいか圧倒的な重厚感があり、渋さがとてもいい。 さらに歩を進めると正面に金堂が現れ、その左隣には水掛不動尊。 ここで、横浜のご夫婦と会った。両手を合わせたら、 ご主人が手にした帽子を水の底へ落してしまい、 水掛け用の長い柄杓で二人で挟むようにしてすくいあげたとか。 お仲がよろしい事で。 今朝早く家を出て、高野山を経てここへ来たのだと。 「このお寺は本堂がないのですかね?」とご主人。 そういえば、私たちもまだ本堂をみていない。

境内が広い。さて、帰路は来た道を戻ろうと、また仁王門へと向かう。 門の直前で私たちの前を右に折れる一団あり。 とその先に本坊があるではないか。 そういえば、確か入る時にまっすぐ歩く私たちとは別に左へ向う人の流れがあった。 これは、見ずして帰れない。 宸殿と石庭は、しっとりとした静寂の空間を生み出し、格式の高さがそれを裏打ちしていた。 侵し難い崇高な空気が、漂う。これぞ、この寺の見所の一つ。

旅から帰って「徒然草第52段。仁和寺にある法師」を見つけた。私は知らなかったが、中学の教科書にも載っている有名な話らしい。(以下現代文にて掲載)

仁和寺にいたある法師(僧)は、年寄りになるまで、石清水八幡宮に詣(まい)ったことがなかったので、 これを残念に思い、 ある日思い立って、ただひとり歩いて参拝に出かけたところが、 麓(ふもと)の極楽寺(ごくらくじ)や高良(こうら)神社などを拝んで、 これだけのものだと思い込み、そのまま帰ってきてしまったという。 そして、仲間に向かって「長年思いつづけてきたことをようやく果しました。 八幡宮はうわさに聞いたのよりまさって、まことに尊い御様子でした。 それにしても、参拝の人たちがみな山へ登っていったのはどうしてなのでしょう。 知りたかったけれども、神社へ参拝するのが本来の目的であると思い、山までは登ってみませんでした。」と言った。 ちょっとしたことにも、案内役はあってほしいものである。

目的の所を見終えたつもりで、帰る寸前までいってしまった私たちと、同じではないか。 昔も、似たようなそそっかしい人がいたのだな。 と妙に感心しつつも、私等の行動を先読みされたようで冷汗が出る。 同感!ほんと、案内役はあってほしいものだ。 この話の本当の意味は、もっと深い。浅読みで引用させてもらい失敬。

ところで、あの水掛不動尊のご夫婦は、うまく本坊を見つけられただろうか? 「ある法師」になっていなければいいが。
きぬかけの路も「仁和寺」で終わり、ここからは京福電鉄・嵐山線に乗る。 次の目的地は「広隆寺」。広隆寺に着いたのがちょうど4時30分。 つまり、きっちり閉館時間。 目当ての東洋のモナリザ「弥勒菩薩半跏像」がこの境内にあるというのに、ここで門前払いなんて、「殺生な」。

ホテルに戻るには、まだ早い。京福電鉄・嵐山線に再度飛び乗り、嵐山まで行ってみる事にした。

07/12/10 京福電鉄・嵐山線(らんでん)

らんでん


ホームに建つ住居?

一両電車が軽快にやってきた。

ホーム内に建つ家は、表札と郵便受けが見えるので、多分一般のお宅。 「行ってきま~す」と玄関を開けて、数歩で電車の中へ。 便利というべきか、びっくりというべきか。 「ねぇ、家 どこ?」「うち?らんでんの太秦広隆寺駅のホームよ」なんて、凄いな。

電車は、民家の軒下すれすれに走り、まるでエノデンのようだ。 懐かしくほっとする景色が、現れては消えて行く。
07/12/10 渡月橋

渡月橋

嵐山駅は、人でごった返していた。 「花行灯とか言うのを、 やってる らしいぞ」と、どこからか聞き込んできた家人が言う。 取りあえず、人の流れについて行く。 びっしりと店が並ぶ道を通りぬけると、渡月橋が視界に飛び込んできた。

渡月橋は、嵐山を象徴する木の橋。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて 「くまなき月の渡すに似る」と言った処から、渡月橋と名付けられたと言われる。

「花行灯」は、冬の観光振興を目的に京都府・京都市・京都商工会議所などでつくる協議会が、2年前から開催。 8日~17日までの午後5時から8時半まで、渡月橋・天龍寺・大覚寺一帯に2600基の行灯を置き、竹林を照らす。

警備の人に「花行灯ってどのあたりですか?」と尋ねると、 一瞬困った顔で「この辺りと認識しています」との返答。 とにかく人が多い。 その上、どっかりと三脚をたて撮影のために長期戦の構えの人が多い。 期待していた嵐山のしっとりとした情趣はどこにもなく、ちょっとがっかり。

橋から少し離れたあたりには、地元中学生が和紙で作った沢山の行灯が、柔らかな光を灯し観光客を誘う。 人ごみの喧噪から外れて一人一人 の個性豊かな作品群と向き合うと、見ている者の心に明かりが灯るようだ。
07/12/10 和泉式部の墓

和泉式部の墓

ホテルへの帰路、とある商店街で足が止まった。 そこだけ、ホノ暗い。目を凝らしてみると、 ひっそりと「和泉式部の墓」が建っていた。 どうして、ここにお墓が?と思ったら、そこはお寺だった。

誓願寺。京都市中京区新京極通。浄土宗・西山深草派。本尊・阿弥陀如来。

帰宅後調べてみた。 柳田國夫説によると「和泉式部の伝説を語り部にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、 中世、諸国に伝承して歩いたために、和泉式部の墓は全国各地にある」との事。 そのような寺との縁でここに墓が建てられたという事なのか。

和泉式部のプロフィールを、探ってみた。 「あらら、恋多き不倫の人生だわ」。 殊に恋歌に情熱的な秀歌が多く、広くその才能が認められた代表的王朝歌人だそうな。 無駄にに恋はしていない、という事か。

華麗なる恋愛遍歴の持ち主だもの、余程 魅力的な女性だったのだろうな。 と思いつつ、早々に引き揚げてきた。夜の墓地は暗くて怖い。
6日目

本日の予定・哲学の道
南禅寺から銀閣寺まで、琵琶湖疎水をたどる道を「哲学の道」と呼ぶ。 今日は、銀閣寺から逆にたどる。 哲学者・西田幾太郎が、この道を散策しながら思索にふけった事から、 最初は「思索の小径」と呼ばれ、それがいつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったようだ。 遠い以前には、「哲学の小径」と言われていた時期もあったような気がするのだが。

07/12/11 銀閣寺

観音殿(国宝)



向月台
山型の盛砂

世界遺産。臨済宗・相国寺派。開祖・足利義政。

正式名は東山慈照寺。 別称が銀閣寺。 祖父の足利義満の建てた金閣寺と比べられるが、銀閣寺は銀箔が貼られた形跡がない。 というのも有名。 金閣寺を見てきた目には、ひときわ落ち着いて見える。 わび、さびの世界と言われるが、大勢の修学旅行生や観光客が慌ただしく出入りしても、凛として動じないこの静寂な空気。 それを醸し出している気こそが、銀閣の底力なのだろうか。

庭園の向月台と銀沙灘の盛砂には、チョークの様な砂が混ぜられていて、光を反射させ、夜、灯りの代わりにしたという。 ただ、今の形態となったのが、江戸時代後期というから以外に最近である。 ←これも、他の観光客のガイドさんが話すのを聞きかじり。 その時、私たちの顔を見回してガイドさんが口走った。 「あら、私のお客さんじゃない。」熱心に耳を傾けていたのは、通りすがりの私たち数名。 彼女のお客は、どこへ行ったやら・・・(タダ聴きしちゃった、失敬)

足利義政が銀閣寺を造営する際、妻の日野富子はビタ一文ださなかったと言われている。 それにしても、応仁の乱が終わったばかりで、京都の経済が疲弊していた中での建設である。 妻の富子は蓄財に精を出し、その遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。 かたや夫の義政は、庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して銀閣を造営したのである。 どういう夫婦じゃ?

銀閣寺は確かにすばらしいが、課された負担を思えば庶民はたまらない。
07/12/11 哲学の道・閑話

この旅行中、唯一の雨天。思索の道は、雨もまた似合う。

一本道を歩いていたら、脇道から数組の女子高生と合流した。近くの女子高校の生徒らしい。 すぐ後ろを歩いていた二人の声が、聞こえてくる。 「○○高校の制服のスカート、短くねぇ~?」相手が頷いたらしく、すぐ同じ声が続く。 「世の中、なめとるわ。」

どこかのおばちゃんの会話みたいで、思わず噴き出した。 もちろん、彼女たちのスカートは、決して短くはなかったと思うが、今更振り向いて確認も出来ない。 「短いのをはいてみたいの?」と聞いてみたい気がした。 それにしても、「スカート丈が短い」→「世の中をなめている。」という図式が、よく理解できない。 これもご本人たちに確かめてみたかったが。

何だか、可愛い。
07/12/11 法然院

山門



白砂壇

浄土宗系。寺の起こりは、鎌倉時代に法然が弟子たちと共に念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた草庵に由来するという。 境内の拝観は無料で自由だが、本堂等は特定の公開日を除いて非公開。

すでに紅葉が終わり葉も落ちた境内は、ひっそりと静謐。 観光客もほとんどいないので、茅葺の山門を始め鄙びた雰囲気をゆっくりじんわりと味わう事が出来た。

山門を入ってすぐの両側にある白い盛り砂が白砂壇である。 砂壇は水を表わし、その間を通る事により心身を清めて浄域に入ることを意味する。 そう思うと、ちょっぴり神聖な気持ちになる。

境内には谷崎潤一郎や河上肇など文人や学者など沢山の有名人の墓があった。 谷崎の墓は左に「寂」右に「空」と刻まれた墓石が一対となり、「寂」が谷崎夫妻、「空」が妻・松子の妹夫婦が眠っている。

この日、墓前に手向けられたカサブランカが、寂しそうに雨に濡れていた。
07/12/11 安楽寺

紅葉の絨毯と山門

宗派・浄土宗。本尊・阿弥陀如来像。

ここは、年に数回の一般公開日以外は非公開。 観光客も結構多く、山門から中を覗いて心を残した様子で帰って行った。

安楽寺は、鎌倉時代のはじめ、法然(浄土宗)の弟子である住蓮・安楽が草庵を結び、 後鳥羽上皇の寵姫、松虫・鈴虫が法然の説法を聞いて出家した。 これを知った上皇は、住蓮・安楽を死罪に法然と親鸞ら多くの弟子を流罪にした。松虫・鈴虫は自刃。

紅葉の季節はすでに過ぎていたが、境内入口の石段に紅葉の絨毯が敷き詰められ、あまりの美しさに思わず感嘆の声をあげた。 「安楽寺の敷き紅葉」である。 紅葉の盛りの真赤なジュータンも見事だろうが、敷き紅葉の鄙びた味わいは又別物。 折からの雨が、情感を一層膨らませてくれる。

法然院の近くなので、おまけのつもりで行ったのだが、期せずして京の晩秋をここで見つけた。
07/12/11 永観堂

臥龍廊

浄土宗・西山禅林寺派総本山。 本尊(阿弥陀如来)(重要文化財)。 開基・真紹。国宝・重要文化財多数。 空海の高弟・真紹が都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建てたのが起源。

見所満載の寺。 まずは階段廊下・臥龍廊。 くねくねと、まるで龍の背中のように波打ち大きく湾曲し、開山堂へと続く。 1504年(永正元年)建立。寸分の狂いもない緻密な計算と大工の技がこの曲線を作り出し、 500余年を経た今日もその美しさのままに存在している事を思うと、当時の建築技術の高さに驚かされる。

珍しい市松模様の盛り砂は、勅使が入ってくる唐門の前にある。 浄域である境内へ入るために、この砂を踏み身を清める。 銀閣寺の盛り砂は灯りの代わりとし、法然院の盛り砂は水に見立てていた。 いづれも、清めのためでもある。

御影堂裏の阿弥陀堂と臥龍廊に別れる回廊のあたりに水琴窟がある。 「心を無にすると琴に似た音が聞こえる」という。 聞こえる、聞こえる、琴の音色が!

「みかえり阿弥陀」にご対面。(以下、永観堂公式ページより)
永保2年(1082)、永観50歳のころである。 2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。 すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。 永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。 この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、
「永観、おそし」
と声をかけられた。 永観はその尊く、慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。

思っていたよりは、ずっと小さい。 「自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。 自分自身の位置をかえりみる姿勢。 愛や情けをかける姿勢。思いやり深く周囲をみつめる姿勢」(永観堂公式ページ) そのせいか、表情がとても柔らかで優しい。そして、色っぽい。

永観堂は国宝・重文をたっぷり所蔵しているのだが、たまたま「山越阿弥陀図」の前で足が止まった。 鎌倉時代の仏画で、国宝である。 阿弥陀仏 と眷属たちが極楽から臨終しようとする信仰者を迎えに来た場面が描かれている。 阿弥陀仏の胸から垂れている五本の糸、「信者が、この糸をつたって極楽へいくのかな?」 と呟いたら、隣に佇んでいた女性が教えてくれた。 「この糸が極楽への道なんです。これはレプリカで、本物は今国立にあります。 作家の折口信夫が、この絵をテーマにした作品を書いていますよ」。 折口信夫って、同性愛者で有名な方? 随分前に知人の勧めで1冊読んだが、題名は忘失。 この絵に纏わる作品は「死者の書」というらしい。いつか、読んでみようかな。
07/12/11 山源(永観堂山門前)

にしんそば



きつねそば

永観堂の山門前にある蕎麦屋。

毎朝、ホテルでビュッフェ形式の朝食を過食気味に食べ、昼になってもまだ満腹状態。 京のうまいものを、値頃ランチでたらふく喰いまくる目論見は大外れ。

永観堂を出た所で、香ばしいカツオのにおいがしてきた。 お腹の空き具合は3分目くらいだったのに、他愛もなく我等の嗅覚が絡めとられた。

家人は又しても「にしんそば」で、私は「きつねそば」。 「にしんそば」の方は、とてもあっさりしていたとの事。 さて、「きつねそば」。 こちらもあっさりめの味付け。 麺じたいは取り立てて特徴もないが、つゆが薄味醤油仕立ての関西風。 濃口醤油仕立ての土地から来た私には、物珍しい。 油揚げが一枚まんまのっかってるかと思いきや、短冊状なのを目にして「あれ?」。 それは瑣末な落胆で、何はともあれカツオ出汁が効いて、嬉しい。 ちょっぴり幸せな気分も一緒に、噛みしめた。

にしんそば@700円。きつねそば@500円。
07/12/11 蹴上インクライン(傾斜鉄道)

インクラインの台車
この上に船を乗せた。

ここで、はたと気づいた。 今日も「スルっと関西3day」カードを使っているのに、朝、京都駅から銀閣寺までバスに乗ったのみ。 これは勿体ない。ここらで、電車でも乗ってみるか。 地図によると、一旦「蹴上」という駅まで出て電車に乗るのが良さそうだ。

蹴上駅に到着。と、その横に不思議なモノを見つけた。 電車の線路?にしては線路幅が広すぎる。 これが、延長581.8メートル、世界最長のインクラインであった。

明治時代、交通の便の悪さと、それに伴う物価高に人々は苦しめられていた。 そのため、京都と琵琶湖を結ぶ水路「琵琶湖疏水」計画が浮上。 目的は、水道用水の確保と船での交通の充実を図ること。 更に、船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り揚げるために、水陸両用のインクラインが建設される。 この計画途中で組み込まれた水力発電事業計画により作られた蹴上発電所は、日本最初の路面電車開業につながり、 さらに各家々に電灯がともる結果をももたらした。

これを計画したのが21歳の技師だ。 莫大な資金を投入しての大事業を、全くキャリアのない若者に任せた懐の深さに、ただただ驚愕する。 と、ともに、それ程に人々が渇望する工事であり、京都府民にとっての悲願だったのだろうと思うと、胸が熱くなる。

明治の技術者の遠大なる夢と挑戦の跡が、ここに確かにある。
07/12/11 大坂城

大阪城天守閣

「蹴上」駅から地下鉄→京阪という経路で大阪着。 迷ったせいもあるが、行けども歩けども大阪城に到達しない。 すぐそこに天守閣が見えているのに、だ。

やっと、天守閣の下に着いた。 で、入場券を買おうとしたら「あと30分で閉館ですが、それでいいですか?」。 良くはない。けれど、いつ またここへ 来られるか解らないし、 せっかくだからチョロッとだけでも覗いていくか?という次第で入場。

1F・天守閣の入口、2F・お城の情報コーナー、3F・4F・豊臣秀吉とその時代、 5F・大阪夏の陣図屏風の世界、7F・豊臣秀吉の生涯、8F・展望台。 これを30分で見終えるには、各階5分。無理。触りだけさらっと見渡して 何とか閉館時間ぎりぎりにエントランスに戻ってきた。

7階の「からくり太閤記」では、ジオラマで秀吉の生涯が展開され、ミニチュア模型の中を小さな秀吉が動き回る。 手をのばすとひょいと秀吉を掬い取れそうな気がして、面白くて飽きない。 他にも面白い仕掛け満載。半日位かけ、じっくりみたい。

某階某所、中国人家族と遭遇。 中学生くらいの男の子が一心に説明書きを読み込んでいた。 見れば日本語のみ。中国人の彼は、これをどう読んでいるのだろう? 漢字を拾い読みかな? 韓国では、秀吉は悪役と聞く。 秀吉の朝鮮出兵という歴史を踏まえればさもありなん。しかし、中国での秀吉はどういう位置づけなのだろ う?少年の感想が気にかかる。

閉館時間に背中を押され、消化不良で後ろ髪をひかれながら、大坂城を後にした。 外はうっすらと暗くなり、振り向くとさっきまで居た天守閣の窓にあかりが灯っていた。 お濠では、釣り糸を垂れている若者を発見。 何が釣れるのかな?と、覗きこむ。鯉かな? 振り返れば若者の横に看板あり。「釣り禁止」。

大坂城の広い敷地内にある大坂城ホール。 入口から続く長蛇の列は・・・。 どうやら、今夜、何かの催しがあるらしい。 脇の方からも長い列が枝のように生い出ている。 傍の掲示板で、今夜のイベントが「桑田佳祐」と判明。 それにしても、凄い人の数だ。
07/12/11 ステーキ「主人公」(京阪・樟葉駅食堂街)

ハンバーグ



ビーフかつ

大阪の京橋駅から準急に飛び乗り、京都のホテルへと向かう。 しかし、乗って二つ目くらいの駅を過ぎたあたりから、電車が各駅停車となった。 遅い!樟葉駅(枚方市)で降り、特急に乗り換える事にした 。乗り降り自由の「スルっと関西カード」を持っている強味で、一旦改札を出てみる事にした。 空腹でもあり、駅の食堂街を歩いてみる。

見つけたのは、メニューオール999円(+消費税)と言う店。 カウンター席があって、テーブル席が4つ程。 テーブル席の座席が全てコックさんに向かい座る。 つまり、私と家人は隣同士に並んで座る事になる。

私がハンバーグで、家人はビーフかつを注文。 いずれにも味噌汁&漬物&ライスがつく。 ここは「大きいと多い」が、キーワードなのか、ビーフかつは草鞋の様に大きく、 ハンバーグも勿論大きくてふわっとジューシー。 さらに驚いたのは、キャベツの量の多さ。 我が家はベジタリアンではないが、野菜大好き一家。 この量の多さは我が家の物差しでは普通だが、一般の方には2人分以上はあるだろう。 嬉しいことに、デミグラスソースの旨いこと♪

店の女性は(たぶん経営者)次々とやってくる客をテキパキと捌く。 客扱いがとても上手く、嫌味がない。 まさに、客商売のために生まれてきたような人だ。

何気に降りた駅で出会った美味しい料理のお陰で、満腹・幸せ気分を道連れに、京都行きの特急に身を委ねた。
7日目
07/12/12 三十三間堂

三十三間堂・通し矢の場所

宗派・天台宗。本尊・千手観音。開基・後白河上皇。正式名・蓮華王院本堂。

本堂の柱間が33あるために三十三間堂と呼ばれる。 もとは後白河上皇の離宮・法住寺殿の一角にあり、長寛2年(1164)に上皇が平清盛に命じてここに造らせた。 度重なる震災のため、文永3年(1266年)に現在の「三十三間堂」が再建された。 本像の千手観音坐像(国宝)を中心に、左右に10段50列で500体ずつ千手観音立像が整然と並んでいる様子は、 まるで観音像の森のようで、見る者を圧倒せずにはおかない。 この1001体の観音像は「十一面千手千眼観世音菩薩」という。 頭に11の顔をつけ、両脇に40本の手を持ち、1本の手が25種類の世界で救いの働きをする。 つまり、40×25で「千手」なのである。 1001体の観音像の中に「必ず会いたい人の顔がある」と言われるが、数が多すぎて見きれなかった。

目に水晶の玉眼をいただく雷神像や風の袋をかついだ風神像、写実彫刻の頂点と言われる婆薮仙人像など、 他では見られない独創的な仏像が多く、時間の経つのも忘れて見入った。

もう一つ、忘れてはならない見所がある。 三十三間堂といえば「通し矢」。 本堂の軒下(長さ約120m)で矢をいるものだが、その遠さに驚愕。 通し矢の華「大矢数」は暮れ六つから24時間に一万本もの矢を射続ける競技だが、 とても並の筋力と精神力では体がもちそうにない。 現在は毎年1月に通し矢大会が行われるが、的までの距離は半分の60メートルである。

1945年には成瀬巳喜男監督が「三十三間堂・通し矢物語」という映画を作っている。 当時、本物の三十三間堂でロケをしたというから驚き。 三十三間堂は、国宝なのだ。60年あまり前の映画だが、観てみたい。
07/12/11 且座喫茶(しゃざきっさ)甘春堂

ランチセット

三十三間堂を出て、すぐの甘味処。 名前の由来は「「まぁ座って茶をおあがりください」という意。

座敷には床の間があり、いくつか炉が設えられていた。 おや?テーブルがない! 私と家人は注文の品が届くまで、膝つき合わせ座布団の上に座り、 お見合い状態。ランチセットは、箱膳。立派な陶器と漆塗りの食器にのり、感激♪京料理は、こうでなくっちゃ。 後で店のパンフを見たら「当家に古くから伝わる本塗りの器やお膳を使用しています。」との事。 さすが!もてなしの心がしっかりと伝わってくる。

ランチセットは赤飯&おかず6品&汁物&和生菓子。 赤飯は小豆の香ばしさがそのまま残り、とても美味しい。 どうしたら、こんな微妙な風味が出せるのだろうか? おかずも少量づつながら満足の味。 和生菓子は、家人がにんまりと幸せそうな表情。 ランチセット・赤飯@1,050円。 ちなみ に、菓子の手作り体験教室も開催している。

隣に座った女性2名組は、抹茶を注文。 指導を受けつつ、抹茶をたてていた。 これは、次回訪れた時のお楽しみに。
07/12/12 まとめ

京都タワー



京都駅の天井

これで、一週間に及んだ私の関西旅行が幕を下ろした。

大坂・奈良・神戸・京都と四都をめぐった旅は、地図片手のとても楽しい珍道中。

まず、今回使った「スルっと関西」カード。JR以外はどこでもほとんど使える乗り放題のまるで魔法のカード。 黄門様の印籠のようなもの。これが切れた一日は、どこか落ち着かなかった。 が、本当に必要だったのは最初の3日間。 つまり、奈良・神戸あたりへ足を伸ばしたあたり。 京都では徒歩が多かったので、特には必要がなかったかも? 乗るなら京都市営のバス一日券とか地下鉄&バス一日券などもあるので、そちらを利用するのも手だ。 ちなみに私は旅行前に札幌の旅行会社で「スルっと関西」を購入したが、3日間連続でなく、 使う日がばらける場合は、とびとびの日で使えるカードが現地で購入できる。 何にしても、上手く使うと便利な企画なのだ。 余談ながら、関西の電車やバスはびっくりする程安い。 しかも、特急に乗っても普通乗車券のみでOKな場合があり、太っ腹だ。(北海道では乗車券の他に特急券が必要となる)

ほとんど計画らしきものもなく、ぶらりと出かけた今回の旅。 振り返ると、旅先で出会った方やその言葉が無形の観光案内をして旅を誘導してくれていた。 さらっとした人の温もりと、一期一会の醍醐味を堪能させてもらった。

旅に関わって下さった方々、本当にありがとうございました。
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