東京・七福神 |
東海七福神 | 24/01/01 | ||
隅田川七福神 | 23/01/01 | メンバー紹介 〇通常 (家人・息子・私) 〇2016年深川 (家人と私) |
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谷中七福神 | 22/01/02 | ||
元祖山手七福神 | 21/01/03 | ||
新宿山手七福神 | 20/01/02 | ||
港七福神 | 19/01/02 | ||
日本橋七福神 | 18/01/02 | ||
深川七福神コース | 16/01/05 |
JR大森駅前 | / | ||
KEIKYU大森海岸駅 | / | ||
磐井神社 | 神社 | 弁財天 | |
鈴ヶ森刑場跡 | / | ||
大森貝塚遺跡庭園 | / | ||
天祖・諏訪神社 | 神社 | 福禄寿 | |
立会川龍馬通り | / | ||
海雲寺(千躰荒神王霊場) | 曹洞宗 | ||
品川寺 | 真言宗(醍醐派) | 毘沙門天 | |
荏原神社 | 神社 | 恵比寿 | |
一心寺 | 真言宗(智山派) | 寿老人 | |
養願寺 | 天台宗 | 布袋尊 | |
品川神社 | 神社 | 大黒天 | |
じゅらく・上野駅前店 | / |
出典・品川区役所 |
24/01/01 | 大森駅前 |
東京都大田区大森北1丁目 新橋・横浜間の開通4年後に開業した歴史の古い東日本旅客鉄道の駅。 駅ビル内にはホテルもあり、ビルに入るショッピングセンター・atreでは土産物からネイルサロンまで何でも揃うという。 広い駅前広場で目をひく看板を発見。「鳩の餌やりは過料(罰金)5,000円」。 2022年に高齢男性の餌やりが問題となり、買い物客や商店が糞害に困り果て大田区に被害を訴えたところ、 区は独自の餌やり禁止条例を制定したのだと。 とは言え、地面のあちこちには白く固まった糞があり、5・6羽の鳩がたむろしていた。 一時よりも減ったとは言え、どこか別の所へ移動しただけなので根本的な解決にはならない処が悩ましい。 |
24/01/01 | KEIKYU大森海岸駅 | |
東京都品川区南大井3丁目 昭和30年代初めまで、すぐ横を走る国道15号線近くまで海岸線があったものの、 埋立がどんどん進んだ末に 海からは遠く離れてしまったそうな。 そうとも知らず、駅名の「海岸」にひかれ、テクテクと歩けども、海は見えそうで見えなかった。 品川区最南端の駅。 |
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国道15号線 | ||
左の横長な部分が駅舎 |
明日の箱根駅伝はここを通過するため、陸橋の上には交通規制の幕が張られていた。 この陸橋の下の国道も、かつては浜辺だったかも・・・ ほんの少し歩いた所で、住所表記がいきなり大田区に変わりびっくり。そう言えば、JR大森駅は大田区だったなぁ。 |
24/01/01 | 磐井神社(弁財天) | |
道路にも続く列 |
東京都大田区大森北2-20-8 1400年の歴史を誇り、古い歴史書にもその名が残る。江戸時代以前は鈴ヶ森八幡宮と呼ばれていた。 尚、地名の由来は、この神社に伝わる鈴のような音色のする石「鈴石」によるものとされ、区指定文化財に指定されているが、非公開。 今年の初参拝だと言うのに、長い列を目にし遥拝と決定。 |
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磐井の井戸 | ||
鈴石とともに名高いのが、神社の前の国道沿いにある霊水の出る井戸。東海道を往来する旅人の喉を潤したそうな。 心が正しければ清水、邪心があれば塩水が出ると言われている。試してみたい気持ち半分、怖い気持ち半分。 ちなみに、第一京浜国道として東海道が拡幅された1927年、元々は境内にあった井戸を神社前の歩道に移した模様。 区指定文化財。 |
24/01/01 | 鈴ヶ森刑場跡 |
東京都品川区南大井 1651年(慶長20年)開設。 東海道沿いの「江戸の南の入口」に位置するこの地に刑場を開設したのは、 当時急増していた浪人たちの江戸への出入りを監視し見せしめによって犯罪を防止する目的があったと言われている。 以来220年の間に10万~20万人の罪人が処刑された。 東京湾沿いにあったため、近くの海での水磔 (すいたく・・・罪人を逆さ吊りにし満潮時に首から肩あたりまで水につかる高さにして溺死させる処刑法。 鈴ヶ森刑場ではその記録も残っている)も行われていた。 処刑者は、反乱事件の首謀者・丸橋忠弥、平井権八、天一坊、八百屋お七 などなど。 ここは大経寺の境内。刑場跡表記のすぐ横あたりにホームレスの物と思われる荷物が置かれていた。 この荷の主は、多くの人々の恨み辛みが深く刻みこまれたこの地で、 ビニールシートに包まって星を眺めながら夜をあかしているのだろうか。 体のみならず、心までも凍りそうだ。 |
24/01/01 | 大森貝塚遺跡庭園 | ||
公園入口 地面の円い部分が噴水 |
東京都品川区大井6‐21 アメリカ人動物学者・モース博士が、1877年に日本へ来日。 横浜から東京へ向かう汽車の窓から大森貝塚の地層を発見したそうな。 移動の短い時間で、博士が貝塚を見出した事に、ただただ唸る。 かくして、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれる様になった。 |
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モース博士像 |
実物の貝塚 |
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一般的に、貝塚は縄文時代のゴミ溜めと思われがちだが、人々が食べた後の残骸ばかりではない。 貝殻・土器・人骨・動物の骨・装飾品など、その生活ぶりを知る事が出来る物が多く出土されている。 縄文時代の中でも後期は、寒冷化で食料が減少し、特に関東圏は急激な人口減少を引き起こしたと言われる。 その状況下で資源減少が少ない海産物を備蓄したのが、この貝塚と言う説も。 以前、青森市の三内丸山遺跡を訪れた時の学芸員さんから興味深い話を聞いた。 「当時の人々は遺跡内の川をフル活用して、貝や魚を採ったり、そこで用を足したり。 この川は、日本最古の水洗トイレなんですよ」。尾籠な話で恐縮。 何処の縄文の人たちも、厳しい生活に立ち向かい、手に入れた物を大切にし、 工夫を凝らし助け合って生活を営んでいたのだろう。VIVA、縄文人。 |
24/01/01 | 天祖・諏訪神社(福禄寿) |
参拝の順番を待つ長い行列 (鳥居の奥が拝殿) 鳥居前、母親にならい 小さな娘さんの遥拝する姿が愛らしい |
東京都品川区南大井1-4-1 旧東海道沿いに立会川を挟んで並び祀られていた南の鎮守・天祖神社と北の鎮守・諏訪神社が、1965年に合祀され天祖諏訪神社となった。 氏神様として地元の人々に愛されているとのこと。元日は一層の人出で、ここも遥拝となった。 |
にんまり顔の狛犬 | |
拝殿前に鎮座する一対の狛犬 こちらは向かって左の吽形 口を閉じ、にんまり笑顔に見える |
24/01/01 | 立会川龍馬通り | |
東京都品川区東大井2丁目 立会川駅周辺は大規模商業施設が少なく、駅近からは商店街がはじまる。そのほとんどの店は、小さな個人経営の飲食店。 狭い道沿いに、ちんまりと並ぶ店々。遠い昔どこにでもあった懐かしい風景そのまま。 立会川商店街は、土佐藩・坂本龍馬が若き日を過ごし、人生の分岐点となった地でもある。 |
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龍馬像 | ||
ペリー来航の1853年、藩からの許可を得て江戸で剣術修行の20歳頃の龍馬は、 立会川河口付近にあった土佐藩下屋敷の警備に動員され、警護に加わる事となる。 龍馬の幕末は、ここから始った。 像の龍馬は草履を履いていて、広く知られているブーツではない。土佐から出てきたばかりの若き日の龍馬像は、どことなく初々しい。 |
24/01/01 | 海雲寺(千躰荒神王霊場) | |
山門 千躰荒神堂(本堂) |
東京都品川区南品川3-5-2 1251年(建長三年)、僧・不山により臨済宗として開基。1596年(慶長元年)曹洞宗に改め、海雲寺となった。 鎮守は、千躰三宝大荒神王。 荒神様は火と水を守る神様。台所に祀れば災難を除き衣食住に不自由をしないとされ、 竈の神様・台所の守護神にして厠の神様として多くの信仰を集めてきた。 |
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平蔵地蔵 | ||
江戸末期、鈴ヶ森処刑場の番人をしていた正直者の乞食が、大金を拾い落し主へ届け出た。 仲間の乞食は、山分けして乞食から足を洗おうと誘ったのを拒否されてため、彼を小屋から追い出し凍死させてしまった。 これを聞いた落し主が地蔵尊を建て、手厚く供養したそうな。山門を潜った途端に、「地蔵s」との出会いが。 |
24/01/01 | 品川寺(ほんせんじ)(毘沙門天) | |
東京都品川区南品川3-5-17 大同年間(806年~810年)弘法大師・空海により創建された品川で最も古いお寺。 本尊・水月観音、大梵鐘、江戸六地蔵第一番尊などの寺宝を有し、人々から深い信仰を集めている。 品川は1200年頃は港町として栄え、江戸時代(1630年~)は東海道五十三次の第一番目宿場町となる。 肥沃な土地による作物や海の幸にも恵まれ、人々は平和で豊かな生活をおくっていた模様。 |
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江戸六地蔵第一番尊 | ||
1708年(宝永五年)、江戸六地蔵のひとつ地蔵菩薩が建立された。 3m近くある大きな地蔵が、1300年来 山門前で旅人や町人の往来を見守り続ける。今日も又。 東京都指定重宝文化財。 |
24/01/01 | 荏原神社(恵比寿) | |
東京都品川区北品川2丁目30‐28 709年(和銅2年)創建。家康をはじめ歴代将軍など武家の庇護を受け、多くの信仰を集めて地元の人々から愛されてきた。「品川の龍神様」と人は呼ぶ。 「荏原神社に祈願すれば、叶わぬことは無い」と言われる程に多くの神様が祀られているため、よろず祈願のパワースポットとして人気が高いそうな。 |
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龍神 | ||
左の写真をズームしたら・・・いた! |
龍の彫刻は、荏原神社の屋根の右側と左側から下を覗き込む。 実は、ここも参拝者が多いため遥拝。傍までも近づけなかったのが心残り。 |
24/01/01 | 一心寺(寿老人) |
東京都品川区北品川2-4-18 旧東海道の始点・品川駅をめざし、大森海岸駅→立会川龍馬通り繁栄会→鮫洲商店街→青物横丁商店街→北品川商店街と、 気づけば徐々に昭和レトロな商店街に足を踏み入れていた。一心寺は、そんな商店の間の細い路地に建っている。 1855年(安政2年)、大老・井伊直弼の開基。創建当初は、修験者が管理しており、日々護摩が焚かれていたという。 当時は寺院ではなく「品川の不動堂」と呼ばれ、昭和期に「一心寺」の名称が与えられた。(出典・Wikipedia) 真っ赤な七福神の幟と「成田山」と書かれた提灯がぱっと目に飛び込んでくる。細い路地の狭い境内に凛と咲く、小さな花をみつけたような。 |
24/01/01 | 養願寺(布袋尊) | |
東京都品川区北品川2-3-12 1299年(正安元年)創建の天台宗の寺。本尊は虚空蔵菩薩、阿弥陀如来。「木造不動三尊像」は品川区指定文化財。 細い路地をてくてくと歩いていたら、着いた。 |
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品川 虚空蔵尊 | ||
●虚空蔵(宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まる蔵の意味)。 人々の願いを叶えるために蔵から取り出して 知恵や記憶力や知識を与えてくれるそうな。 その蔵、私専用のを一つお願いします。 ●もうひとつの見どころは、商店街からお寺へ続く「虚空蔵横丁の煉瓦塀」。 趣があって映画などのロケ地にも使われているとか。 裏から境内へ入ったので、山門がどこにあったのか全く気づかなかった。・・・残念 |
24/01/01 | 品川神社(大黒天) |
東京都品川区北品川3-7-15 1187年(文治3年)創建。 境内には宝物殿・神楽殿・富士塚・板垣退助の墓などがあるそうな。 社殿は、境内への入口(左の写真・品川神社と書かれた二本の幟の間に建つ双龍鳥居)から53段の急階段を上った先。 件の鳥居から規制線が張られ、国道沿いに出来た列は見る間に長くなっていく。 一体、この行列の尻尾にどの位の時間 並べば本殿まで辿りつけるのか。 今日訪れた寺社の中でも一番の人出に、早々と遥拝を決め込んだ。 |
閑話 |
能登半島地震 |
今年の七福神巡り、神社はほぼ遥拝。とにかく、参詣客が多かった。 という次第で、予定よりも早く終了し品川駅到着。 横切った駅改札周辺は、何となくザワザワした雰囲気が漂っていた。 耳に飛び込んできたアナウンスは「北陸新幹線 運休」の知らせ。 繰り返されるアナウンスに、移動手段を絶たれて途方にくれ立ち尽くす人々。 息子が言った。「何かあったのかも・・・」 後日譚:帰宅して、あれが能登半島地震の影響だったと知った。 今年の幕開けが、こんな悲しい災害だなんて。 この寒空に家を失った人・一瞬にして家族を亡くした人の過ぎた時を戻すことは出来ない。 悲しくてやりきれない。 |
24/01/01 | じゅらく・上野駅前店 | |
東京都台東区上野6-11-11 本日の反省会はどの店で?毎年ながら、正月はクローズの店が多く難儀する。 今年も予約なしでの店探しは難航し、品川を諦めて上野へ一か八かの移動。 やっと見つけたのが上野のじゅらく。 随分昔、上野へ来た時はここで食事と決めていたが、いつしか閉店してしまった。 テーブルの上に目をやると、この店の歴史が記載されていた。 2008年に閉店し2019年にリニューアルオープン。そうそう、たしか以前は漢字の聚楽だった。 ファミレス風な気軽感が心地よい。にしても、ビール飲みすぎ!? 〆て11,910円。(表示価格は税込み)。なんとリーズナブルな! |
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バーグ&カットステーキ 1,680円 |
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バーグ&ソーセージ 1,480円 |
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トンテキ 1,500円 Aセット(ライス・スープ) 360円 |
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ポテトチーズ焼き 750円 大生ビール大 1,100円×4 生ビール中 580円×3 |
写真なし |
完 |
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東武牛田駅&京成関谷駅 | / | |
カネボウ公園 | / | |
多聞寺 | 真言宗 | 毘沙門天 |
鐘ヶ淵陸橋 | / | |
榎本武揚像 | / | |
白鬚神社 | 神社 | 寿老人 |
向島百花園 | / | 福禄寿 |
向じま墨亭 | / | |
蝸牛庵 | / | |
隅田公園少年野球場 | / | |
言問団子 | / | |
長命寺桜もち | / | |
長命寺 | 天台宗 | 弁財天 |
弘福寺 | 禅宗(黄檗宗) | 布袋尊 |
三囲神社 | 神社 | 大國神・恵比寿神 |
隅田川点描 | / | |
寿司居酒屋 日本海浅草店 | / |
23/01/01 | 東武牛田駅&京成関谷駅 |
東武・牛田駅 京成・関谷駅 |
程なく不思議な駅に遭遇した。 道路一本を跨いだ目と鼻の先に、駅名が全く違う東武と京成の駅がある。って、どういう事? 京成本線の京成関谷駅は1931年開業。 江戸時代、千住仲町から千住関谷町あたりは関谷の里と言われ、葛飾北斎の「富嶽三十六景」にも出てきて、 駅名の由来は「関谷の里」からきていると言われている。 一方、東武線の牛田駅は1932年の開業。 「牛田圦(いり)」と呼ばれた農業用水路があったのと、 葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「関谷の里」の田園風景に牛が描かれている事が駅名の由来と言われているそうな。 両駅ともに住所は「足立区千住曙町」。 近くには、「千住関谷町」と言う地名は存在するが「牛田」と言う地名はない。 ならば、後で開業した東武は、何故に全く別の駅名をつけたのか。両社の間に何らかの確執でもあったのだろうか。 時は流れ、今となっては真相を知る術はない。疑問だけが、目の前に残った。 |
23/01/01 | カネボウ公園 |
カネボウ公園の銘板 |
東京都墨田区5丁目17 「カネボウ公園」の銘板をチラ見して、数歩先の消火器に「鐘ヶ淵町会」の文字を見つけた息子が、はたと踵を返した。 カネボウ、鐘ヶ淵・・・もしかして・・・そう、ここは「鐘淵紡績」発祥の地。 江戸期、この地には沈鐘の伝説があり、将軍・徳川吉宗が引揚げを下命するも果たせず、鐘は毎夕 月の出と共に燦然と光を放ったと言う。 吉宗は周辺の風光明媚を愛で、ここを将軍家専用の野菜畑とし「御前栽」と称した。 (「鐘淵紡績発祥の地」碑の裏のプレート「発祥碑由来記」より) 明治22年(1889年)「東京綿商会」が、この地の一角に最新式の英国の紡績機械を導入した紡績工場を完成させ、地名に因み「鐘淵紡績株式会社」と社名変更。 のちの「カネボウ」である。化粧品・薬品・日用品など手広い事業展開ののち、オイルショック・バブル崩壊などで経営悪化。 子会社の「カネボウ化粧品」を花王に売却、「カネボウ」の商標は「カネボウ化粧品」に譲渡され、カネボウ本体は解散しクラシエ・グループとなった。 かつては、このあたり一帯に鐘淵紡績の大きな工場があり、その一部が「カネボウ物流」の本社になっているのだが、 「カネボウ物流」敷地内にあった「鐘紡記念公園」は石碑や「震災記念観世音菩薩」「大震災復興記念碑」と共に会社の東側のこの地へ移され、 「カネボウ物流公園」→「カネボウ公園」と改称された。 |
公園とは言えグランドみたいな平地 「鐘淵紡績発祥の地」碑 |
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ここへの途中、すぐ傍で「花王」と「カネボウ」の社屋が隣り合って建っていた。 扱っている業種によっては競争関係にもあるだろう両社が仲良く片寄せ合っているのは、こういう歴史ゆえだったのか。 昭和40年、工場移転のおりに「鐘淵紡績発祥の地」碑の裏に添えられたプレート「発祥碑由来記」は、こうも語る。 「鐘紡稲荷神社を奉安し80余年に亘って受けたこの地域社会のお陰を感謝すると共に老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし 永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。鐘淵紡績株式会社 社中一同」 碑を読めば、かつての鐘紡社員の誇りがひしひしと伝わってくる。 今はその思いとは裏腹に、訪れる人とて無く、うち捨てられた様にひっそりとここに残る。 「盛者必衰の理」とは言え、世の無常に胸が締め付けられる思い。世の中に不変はないのだが・・・ |
23/01/01 | 多聞寺(毘沙門天) |
山門(江戸末期の作) 墨田区指定文化財 茅葺屋根は木造切妻造の四脚門 |
墨田区墨田-5-31-13 以前は隅田川神社付近にあって「大鏡山明王院隅田寺」と名のり、 本尊は不動明王だったが、天正年間に鑁海和尚の夢に毘沙門天(多聞天)のお告げがあり、以来 毘沙門天を本尊として「隅田山吉祥院多聞寺」と改称し、 明治維新までは隅田川神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)だった。 関東大震災や戦災をも免れ、昔日の面影を今に残す希少な寺である。 境内には、「六地蔵」や「東京大空襲で被災した旧 浅草国際劇場の鉄骨」や「映画人の墓碑」・「狸塚」など多くの文化財を有す。 |
狸塚 | |
昔、この地にあった大きな池には恐ろしい毒蛇が棲み、 「牛松」と呼ばれる大木の根本の大きな穴には妖怪狸が住んで、人々をたぶらかしていた。 そこで、鑁海和尚と村人は妖怪たちを追い払うために「牛松」を切り倒し、穴を塞ぎ、池を埋め、お堂を建てた。 処が、悪戯は酷くなるばかり。 そんな時、和尚の夢に大入道が現れ「ここから、さっさとでていけ。さもなくば村人を食ってしまうぞ」と脅す始末。 和尚が一心に毘沙門天を拝むと、毘沙門天に使える童子が現れて妖怪狸に言った。 「お前の悪行は、いつかお前を滅ぼすことになるぞ」。 翌朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいるのを見て、 可哀想に思った和尚と村人は切り倒した松や埋めてしまった池の供養のために「塚」を築いたところ、いつしか「狸塚」と呼ばれる様になったとさ。 (狸塚のいわれより) |
23/01/01 | 鐘ヶ淵陸橋 |
墨田区堤通2丁目7 鐘ヶ淵駅前から200m程の所に鐘ヶ淵陸橋交差点があり、その中央帯には「鐘ヶ淵陸橋碑」が設けられている。 レリーフには、歌川広重の「名所江戸百景」の「木母寺内川御前栽畑」が。 御前栽は、「カネボウ公園」のところでも出てきたが「吉宗が周辺の地を将軍家専用の野菜畑とした所」のことである。 当時は御前栽畑まで隅田川から内川を辿り舟での往来が出来、風光明媚な所だった様だ。 |
23/01/01 | 榎本武揚像 |
墨田区堤通2丁目6番 高層住宅が建ち並ぶ墨堤通りの一角、梅若公園内に榎本武揚像は建っている。 榎本武揚は、江戸期から幕末にかけ、幕臣・政治家・外交官・軍人として日本の歴史の中心にいた人物のひとりである。 現在の東京農業大学の前身である育英黌農業科の創始者でもある。晩年は向島で暮らしたとか。 像は、榎本没後に大隈重信や渋沢栄一、大倉喜八郎など政財界の重鎮により創設されたもの。 |
23/01/01 | 白鬚神社(寿老人) |
社殿 赤い幟の下の狛犬・吽 ↓ ちょっと愛嬌ある御面相・ |
墨田区東向島3丁目 今を去る事1000年程、琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の分霊として祀ったのが、白鬚神社の始まりとされている。 主祭神「猿田彦大神様」は、正しい方位を示す国土開発の神。 そのため、導きの神として「商売繁盛」「旅立安全」「交通安全」「方災除の神」として人気なのだとか。 なるほど、そんなマルチな神様ゆえに、こんなに混んでいるのか。納得。 |
あまりに参拝者が多いので、横の鳥居から「遥拝」 扁額の下の黄色いのが社殿 列は左端の人たちからも更に延々と続く |
23/01/01 | 向島百花園(福禄寿) |
墨田区東向島3丁目 初めに書いたが、そもそも「隅田川七福神」は、百花園に集まる江戸町民文化を代表する文化人等の発案で始まったと言われる。 墨田区登録無形民族文化財の「隅田川七福神めぐり」によると、 「福禄寿尊像は、佐原鞠塢(さはらきくう・仙台出身で江戸後期の骨董商・文人・本草家)が、百花園の草花にちなみ本草の神として愛蔵し信仰したもの」 東京に残る名園は旧大名邸がほとんど。そんな中で、百花園は町人文化の粋を今に残す数少ない庭園である。 1月の園内は花もなく寂しいが、季節が移れば 百花繚乱の風景が繰り広げられるのだろう。是非、見たい。 |
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23/01/01 | 向じま墨亭 |
墨田区東向島1丁目 偶然通りかかったのは、築60年の古民家を改装した2階にあるミニ寄席。 貸席で、独演会や勉強会などが不定期で開催されているそうな。 玄関横の台上の箱に、パンフレット等と共に「文豪の短編」ミニ本が数冊置かれていた。 裏に値段が貼ってあるものの自由に持ち帰って良い様なので、本好きな息子が遠慮なく頂戴して来た。 私は、2階の寄席に興味津々。 |
23/01/01 | 蝸牛庵 |
二つの蝸牛像が愛らしい (出典・墨田区) |
墨田区東向島1丁目 蝸牛庵は、文豪・幸田露伴の旧宅。 引っ越し好きでカタツムリの様に頻繁に住まいを替えていたため、自らの家をカタツムリの家(蝸牛庵)と呼んだ。 庵の庭では、門弟たちと剣道や弓道、相撲などを楽しんだと伝えられている。 ちなみに、娘の作家・幸田文は、この家で生まれたそうな。 庵は現在、明治村へ移築保存され、跡地は「露伴児童遊園」という公園になっていて、その一角に露伴の文学碑などが建っている。 ちなみに、向島地域は明治時代から堀辰雄・森鴎外・吉川英治・佐多稲子・正岡子規など多くの作家たちが住み着いた。 名前を並べてみても、何とも豪華な顔ぶれだ。余程に文人たちにとって住みやすい所だったのだろう。 |
23/01/01 | 隅田公園少年野球場 |
墨田区向島5丁目 日本初の少年野球場。 元ジャイアンツの王貞治選手が少年時代、練習に通った球場である。 戦後「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生したと言う。 今日も少年たちのバットから快音が響く。それを熱心に見守る親たち。 「ここで練習しあれ程のビッグな野球選手となった王選手の存在は、少年たちの「未來への大きな矢印にして希望の星」。 改めて、王貞治氏の偉大さを思う。 |
23/01/01 | 言問団子 | |
墨田区向島5丁目 歩き疲れ「そろそろ一服したい」と思ったジャストなタイミングで目の前に現れたのは、かの有名な言問団子のお店。 言問団子は植木師・外山佐吉が江戸時代末期に創業し、池波正太郎・幸田露伴など多くの著名人が足を運んだと言う。 店名の由来は、古今和歌集の在原業平の和歌に因んだもの。言問橋は、これに因み名付けられたとのこと。 ここは、TBSアナウンサー・外山惠理さんのご実家だそうで、私 今日まで知らなかった。 |
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言問団子780円(税込) |
食べ終えた3人のお皿 |
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団子は、小豆餡・白餡・味噌味餡の3種。 値段はちょっと高めだが、上品な味わい。中でも味噌餡は珍しく、美味しかった。 |
23/01/01 | 長命寺桜もち |
墨田区向島5丁目 言問団子に次いで今度は桜もち。甘味処二連発。 「私どもの祖先に、長命寺の門番をしていた山本新六という者がおりました。 この人、桜の季節は落ち葉の掃除に手を焼いたそうで、ふと思いついて桜の葉を塩漬けにいたしまして、 薄い皮で餡を包んだものに巻いて売ったところ、大変な売れ行きだった」(長命寺 桜もち 山本や・江戸老舗探訪記) |
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長命寺桜もち500円(税込) |
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「おぉ、こんなご先祖様が欲しかった」・・・なぞと邪悪を抱く間もなく、桜もちがやってきた。 スーパーの桜もちとは違い、包んでいる葉が厚く固い。 これは葉ごと食べるのか、葉を外して餅だけ食べるのか。しばし思案して、餅だけを食べた。 葉の香りが餅にうつり美味しい。店を出て息子が言う。 「後から来た若い男性たちも迷い、結局 葉ごと食べていた」と。 |
23/01/01 | 長命寺(弁財天) | |
墨田区向島5丁目 徳川三代将軍・家光が、鷹狩り中に腹痛を起こし、この寺の井戸水で薬を服用したところ治癒したため、 家光はその井戸水に「長命水」の名をあたえ、寺名も「長命寺」とした。 |
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松尾芭蕉「いざさらば」の句碑 |
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「いざさらば 雪見にころぶ所まで」 長命寺には幾つかの句碑があるも、芭蕉44歳の時の作品であるこの句は有名。 意味は、「折よく雪が降りだした。 さあ、それでは皆の衆、雪見に出るとしよう。道ですべって転んだらなお一興。さあころぶ所まで出かけよう」 |
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木の実ナナさんの碑 |
木の実ナナさんの献酒 |
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当地出身の木の実ナナさんの碑を発見。随分と前、ナナさんの舞台を観た。 洗練されたキレキレのダンスと上質の色気が醸し出す洒落た華やかさに、目は釘付け。「風のように 踊り、花のように恋し、水のように 流れる」。ナナさんらしい。 正月でもあり、ナナさんの献酒を一杯ちょうだいして来た。今年はいいことありそうな。 |
23/01/01 | 弘福寺(布袋尊) |
山門 |
墨田区向島5丁目 江戸前期に、日本三禅宗の一宗派・黄檗宗(おうばくしゅう)の僧・鉄牛道機が開山、稲葉正則の開基。 一応 実家は禅宗だが、葬儀や法事の他は、とんとご無沙汰な「なまくら信者」なので黄檗宗は初めて聞いた。 禅宗の中にも宗派があるとは・・・ 境内の祠には爺婆の石像が祀られ、風邪やインフルエンザ予防祈願の参拝者が訪れるそうな。しまった!気付かず見逃してしまった。 |
本堂 |
23/01/01 | 三囲神社(大國神・恵比寿神) |
墨田区向島2丁目 三囲神社は「みめぐりじんじゃ」と読む。 創立年不詳。 弘法大師ゆかりの「田中稲荷」という小さな祠があり、近江三井寺の僧がこの地に遍歴の際に社檀の改築のために地中を掘ると、 白狐に跨る老爺の神像が入った壺を出土。白狐が現れ、神像の周りを3回回って死んだため、これを三囲(みめぐり)の名の由来としたそうな。 |
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大國神・恵比寿神を祀る社 |
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「何でここに三越のライオン像?」と不思議に思ったのだが・・・ 三囲神社が、三越で有名な三井家の本拠地・江戸本町から鬼門に当たるのと、三囲神社の「囲」の字が三井の井を囲むことから、 三井を守る守護神として境内に三井家当主を祀る零社や閉店した池袋三越前にあったライオン像を寄贈したのだと。 |
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池袋三越前にあったライオン像 |
23/01/01 | 隅田川点描 |
これで、隅田川七福神詣を無事に制覇した。ゴールは、東京スカイツリーのお膝元。隅田川の夕景が美しく、じんわりと沁みる。 |
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勝海舟の像 アサヒビール本社ビル シンボル「金の〇ンコ」は、この陰 隅田川を歩くカップルのOneショット 源森川水門 隅田川と北十間川の交点に設置されたローラーゲート水門 スカイツリーを背負った夜景が美しい 夜の帳が降り始めたスカイツリー |
23/01/01 | 寿司居酒屋 日本海浅草店 | |
さて、恒例の反省会の夕餉の店をどこにするか。例年、正月で休店の店が多い。 事前に予約しておけば良いのだが、時間に縛られるのはきつい。 という次第で、「浅草なら正月でも開いている店が多いだろう」と浅草へ。 しかし、浅草は凄い人出でDJポリスが出動する始末。大通りは身動きも出来ない。 何処の店も満員で受付すらも止めている所も多い。 メイン通りを行ったり来たりし「もう、立ち蕎麦でもいいよぉ」と私が音を上げた頃、 ちょこっと中心部からそれた辺りの店に順番待ちながら入店できた。 (以下 全て税抜き) |
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生麦酒(中) 560円 |
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お通し(生姜ガリ) | ||
特上寿司 2,400円 |
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豊洲直送5貫握り 900円 |
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火のっぺホルモン焼き 750円 | ||
ふっくらサクサク いか天のマジ盛り 620円 |
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ダブルねぎサラダ 500円 | ||
15分位待って、テーブル席に案内された。ここは寿司居酒屋、まずは飲み物を注文。 私と息子は、まずは麦酒。下戸の家人は、メニューを覗き込む。注文取りのフロア係の中年男性が、察して言った。 「あ、飲まないの?だったら、注文しなくていいよ。お茶もってこようか」と。 普通、こんなシーンでは、飲みたくもないノンアルコールビールかウーロン茶を注文するのだが。 家人にとっては、お茶が何より有難い。 飲まない客は、店の売り上げに大きく貢献する事はないだろうに。 こういう事を言ってくれる良心的な店は、珍しい。 ご安心めされ。その分、蟒蛇母子の私と息子がしっかり店の帳尻合わせをいたします。 えぇと、私が麦酒(中)3杯と、息子が麦酒(中)1杯と生ビールダンベル(大容量@1,300円)1杯。 楽しく食べて飲んで〆て13,780円。値段・接客・雰囲気ともに良い店だった。 難産の末に辿り着いた店は、大吉なみの大当たり。今年は良い年になりそうな。本日の歩数30,251歩。 |
完 |
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東覚寺 | 真言宗 | 福禄寿 |
芥川龍之介旧居跡 | / | |
青雲寺 | 禅宗臨済派 | 恵比寿 |
修性院 | 日蓮宗 | 布袋尊 |
夕やけだんだん | / | |
谷中ぎんざ | / | |
富士見ホテル | / | |
天王寺 | 天台宗 | 毘沙門天 |
経王寺 | 日蓮宗 | 大黒天 |
サンゴダールの「シベリア」 | / | |
JR日暮里駅 | / | |
谷中霊園 | / | |
長安寺 | 禅宗臨済派 | 寿老人 |
観音寺 | 番外 | |
築地塀 | / | |
谷中の雀 | / | |
護国院 | 天台宗 | 大黒天 |
博物館動物園駅跡 | / | |
旧因州池田屋敷表門(黒門) | / | |
上野東照宮 | / | |
上野大佛 | / | |
パゴダ薬師堂 | / | |
不忍池弁天堂 | 天台宗 | 弁財天 |
月の松 | / | |
北海道くろまつ | / |
谷中七福神は、江戸最古の七福神。 その全てが寺であり、神社が入らない珍しい七福神。 |
東覚寺 | |||
本堂 | 室町中期に創建された古寺。幸福・高給・長寿の神様。 気が付けば、いつの間にか長蛇の列が。 |
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赤紙仁王尊 | (ピンボケのため、2016年撮影のもの) 不動前の赤紙の仁王像と、奉納された沢山の草鞋に目が点。 「仁王像は、自分の体の悪い所と同じ個所に赤紙を貼ると病が治る」との言い伝えが残る。 |
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芥川龍之介旧居跡 | |||
この地で「鼻」や「羅生門」や「河童」などの名作を著した。 今、ここに記念館建設を準備中。2023年の開館が待ち遠しい。 |
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青雲寺 | |||
本堂 |
江戸中期、この辺りは「ひぐらしの里」と言われ人々の憩いの場として親しまれた。 青雲寺は修性院とともに「花見寺」と呼ばれ近郊の行楽地として賑わいを見せていたと。 |
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滝沢馬琴筆塚の碑 | 境内には、江戸を代表する文人の碑が多く残る。 |
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修性院 (しゅしょういん) |
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別名・花見寺 |
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「名所江戸百景」 | 「日暮里寺院の林泉」歌川広重 この寺院の境内の春風景 (出典・国立国会図書館) |
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夕やけだんだん | |||
いつも明るい時に来るので、次回はここから綺麗な夕焼けが見たい!と常々思っているのだが・・・ 今日は“猫”がいないなぁ。 左の階段を上がると「谷中銀座」入口 |
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谷中ぎんざ | |||
階段を上って振り返ると、東京の下町「谷中銀座」入口。 通りには60軒あまりの商店が軒を連ね、昭和の人々の暮らしぶりが思い起こされ、妙に懐かしい。 左下・注意柱の所が「夕やけだんだん」 |
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富士見ホテル | |||
「夕やけだんだん」のすぐ傍に発見! 廃屋か?と見紛う建物。 中を改装して外国人向けシェアハウスとして営業中とか。ショートステイならしてみたいが・・・ |
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天王寺 | |||
幾多の廃寺の危機を乗り超えて、谷中霊園の隣にある最古の寺。 明治初期、広大な天王寺の境内は東京府に移管され、共同墓地・谷中霊園となる。 巨大な銅造釈迦如来坐像で知られる。 |
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経王寺 | |||
山門 | 経王寺・山門に今も残る銃痕は、上野戦争(戊辰戦争)で新政府軍に追われた彰義隊を匿い、新政府軍の攻撃を受けた銃痕。 くっきりと残る銃穴が当時の戦闘の激しさを今に物語る。 |
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サンゴダール | |||
シベリア | 「サンゴダール」は谷中の老舗パン店。サンドウィッチなど人気商品は多々あれど、何と言っても一押しは「シベリア」。 それは、羊羹をカステラで挟んだ菓子。名前の由来が気になるが、和菓子の様な洋菓子の様な。 味は、不思議にも羊羹とカステラの和洋折衷がベストマッチ。 |
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JR日暮里駅 | |||
谷根千あたりのキャラクターはニャンコ。 駅名の「暮」の字の上に猫の肉球跡、そして「駅」の字の最後の一筆は猫のしっぽが!可愛い~。 |
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谷中霊園 | |||
高橋お伝の墓 | 徳川慶喜をはじめ多くの著名人が眠るこの霊園で、異色な人物の墓に遭遇した。殺人犯にして女性死刑囚の「高橋お伝」。 そも、男女関係の縺れが殺人の原因だっただけに、本当に彼女だけが悪かったのか。真実は藪の中。「高橋お伝さん」と呼んでおこう。 |
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川上音二郎の墓 | 明治期の新派俳優にして興行師。寄席での時勢風刺の「オッペケペー節」で一世を風靡したそうな。 |
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長安寺 | |||
山門 | 本堂に、徳川家康が納めたとされる寿老人の彫像があり、長寿のご利益があると言われている。 境内には台東区の有形文化財指定の板碑や明治初期の画家・狩野芳崖の墓所あり。 |
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観音寺 | |||
山門 | 「谷中七福神・番外」 1611年創建。小さな寺だが、赤穂浪士と深い関りを持つ寺である。 |
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赤穂浪士供養塔 | 赤穂浪士・近松勘六とその異母弟・奥田貞右衛門の兄弟・文良がこの寺で修業をしていたため、ここで討ち入りの密談もされていたと言う。 |
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築地塀 | |||
観音寺・南側の築地塀。 土と瓦を交互に積み重ねた土塀である。 塀沿いに歩けば、さながら江戸時代にタイムスリップした気分。 国の有形文化財指定。 台東区の「まちかど賞」受賞。 |
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谷中の雀 | |||
「初音小路」と言う昭和の雰囲気ぷんぷんの路地の奥に・・・あった! 実は今年の七福神は、この店を訪れたくて谷中に決めたが予約の電話を入れると「ごめんね。6日まで休みなんだよ」とのこと。 入店は叶わなかったが、いつかきっと!の思いをこめて覚書。 品書きは「鬼平ごのみ おまかせ軍鶏鍋コース」と「季節の鍋コース」 1月の「季節の鍋コース」は 「古き良き江戸が残る谷中にー。 軍鶏鍋と山海の幸を江戸風にアレンジした旬の料理をお出ししています。 池波正太郎や文人が愛した江戸の風情を当店で感じていただければ幸いです。皆様のお越しをお待ちしております」店主・石井洋二 酒も料理も大層美味いそうで、予約が取りづらいらしい。いつか鬼平の世界にすっぽりと浸りたい。 |
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護国院 | |||
寛永寺の支院のひとつ。 谷中七福神の中で、ここと不忍池弁天堂は上野にある。 |
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博物館動物園駅跡 | |||
昭和8年、京成本線開通に合わせ、皇室御用地だった東京帝室美術館(現・東京国立博物館)の敷地内に建てられたが、 平成9年に廃止され、平成30年に駅舎が東京都選定歴史的建造物に認定された。 西洋様式の外観が特徴的で、国会議事堂よりも建築時期は古い。 |
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旧因州池田屋敷表門(黒門) | |||
元は旧丸の内大名小路(現・丸の内3丁目)にあった鳥取藩・池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。 江戸末期の大名屋敷の門としては最も格調が高いものとされ、1951年に重要文化財に指定された。 |
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上野東照宮 | |||
寛永4年(1627年)「魂が(自分の)末永く鎮まる所を作ってほしい」との危篤の家康から託された遺言により、藤堂高虎が自らの敷地内に創建。 慶安4年、家康の孫・家光により改築。その後、上野戦争・関東大震災・第二次世界大戦などからも焼失を免れた事から、 出世・勝利・健康長寿の神様として信仰されている。 |
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上野大佛 | |||
上野公園の西洋料理の老舗・精養軒近くの小高い丘に建つ。 かつては上野恩賜公園にあったが、関東大震災までの幾多の罹災による損壊で、6mもあった巨大大仏も、現在は顔面部のみ。 隣で手を合わせていた女子高生2人組の片割れがポツンと呟いた。「これ以上落ちませんように」。 胴体を失い顔面のみとなった今は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」とも呼ばれ、受験生に人気なのだそうな。 彼女たちに吉報が舞い込みますように。心の中でそっと祈願した。 |
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パコダ薬師堂 | |||
寛永寺・本尊・薬師如来ほか 上野大佛の敷地内に建つ。 上野観光連盟が昭和42年に建設したもの。左から月光菩薩・薬師如来・日光菩薩。 これら薬師三像は江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期に寛永寺に移管されたもの。 参拝の順番になり思わずスマホを構えたら、耳元に「撮影は禁止です」と抑揚のない声が飛び込んできた。 「え、私?」と声の主を見れば職員の方らしい。「すいません。気づきませんで」と平謝りの私。 言い訳をするつもりはないが、撮影禁止の表記が前の方の陰に隠れて見えなかったのだ。 そして、職員さんは何事もなかったかの如く扉を開け、中で作業をはじめた。 ここは基本的に扉の柵越しの拝観。お陰で目の前で三尊を拝観する事ができた。感謝。 |
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不忍池弁天堂 | |||
江戸初期に天台宗・天海大僧正により建立。上野の山を設計するにあたり、京都周辺の神社仏閣に見立てて寛永寺を造ったと言われている。 不忍池を琵琶湖に、聖天が祀られた島を竹生島に見立て、さらには島を大きく造成して竹生島の「宝巖寺」に見立てたお堂を建立したそうな。 因みに「金運UPのご利益あり」 |
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月の松 | |||
天海大僧正が京の清水寺に倣い建立した清水観音堂と月の松。 月の松は、円の形をした不思議な松。その円の中に不忍池弁天堂がすっぽりと収まる仕掛けになっており、歌川広重も浮世絵に描いた程。 何とも風流な・・・ |
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北海道くろまつ | |||
正月で人出が多く、どこの飲食店も満員な中、何とか待たずに入店できたのが、上野フロンティアタワー6Fの「くろまつ」と言うハンバーグの店。 今年も無事に七福神コンプ。乾杯♪ |
完 |
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行人坂と目黒川架橋供養勢至菩薩石像 | / | / |
大円寺 | 天台宗 | 大黒天 |
HORIPRO | / | / |
目黒雅叙園 | / | / |
〇百段階段 | / | / |
太鼓橋 | / | / |
禿坂(かむろざか) | / | / |
瀧泉寺 | 天台宗 | 恵比寿 |
三折坂(みおりざか) | / | / |
蟠龍寺 | 浄土宗 | 弁財天 |
妙円寺 | 日蓮宗 | 寿老人・福禄寿 |
瑞聖寺 | 禅宗 | 布袋尊 |
覚林寺 | 日蓮宗 | 毘沙門天 |
JR高輪ゲートウェイ駅 | / | / |
権之助坂商店街 | / | / |
瓢喜 | / | / |
出典・目黒区役所 |
21/01/03 | 行人坂と目黒川架橋供養勢至菩薩石像 |
勢至堂 (目黒川架橋供養勢至菩薩石像) & その手前が行人坂 |
目黒駅で息子と待ち合わせ、家人と3人で駅から近い大円寺を目指す。 寺に面した坂が行人坂。坂の一部が品川区大崎で他の部分は目黒区下目黒。 平均勾配が15.6%と言われる急勾配は、下りでも油断すると一気に加速して坂下へ疾走しそうで、足の指先に力が入りくたびれる。 ましてや、上りは推して知るべし。 しかし、この坂沿いに雅叙園があり、さらに行けば目黒川に出る。 晩秋の紅葉は見事だとか。急勾配は膝に来るが、歩くに楽しいコースだ。 行人坂の名の由来は、湯殿山の行者が大日如来堂(大円寺)を建てて修行を始めると多くの行者が集まり住み着いたため。 この坂は江戸三大火のひとつ行人坂火事でも有名。 明和9年2月、行人坂の大円寺から出火し延焼して3日3晩燃え続けたという。 明和9年の出来事で「めいわくの年」と言われたため、幕府は元号を「安永」と替えたそうな。(目黒区役所サイトより) 大円寺門前、行人坂に面した勢至堂に目黒川架橋供養勢至菩薩石像が安置されている。 宝永元年(1704年)、僧・西運が江戸市民から受けた報謝をもとに目黒川両岸の石壁と太鼓橋を架けた事を記した石像である。 な・な・なんと、この西運と言う僧、実はかの有名な八百屋お七の想い人・吉三だったとは・・・。 |
21/01/03 | 大円寺(大黒天) |
目黒区下目黒1丁目 創建は湯殿山修験道の行者・大海。 1772年(明和9年)に発生した大火の火元となった寺である。 そのため江戸幕府から再建の許可が下りず、江戸後期になり ようやく薩摩藩の菩提寺として再建を果たした。 明治期には、隣接した明王院がこの寺に統合されている。 また、大円寺は八百屋お七の恋人・吉三ゆかりの寺として、つとに有名。 八百屋を営むお七一家が火事で家を失い、寺に身を寄せるうち、娘・お七が寺の小姓・吉三と恋仲になるも、 その後、再建した家に引っ越し吉三に会えなくなってしまった。 お七は「火事が起きれば又寺へ避難して吉三に会える」と、会いたい一心で自宅に火を放つ。 かくして、お七は放火の罪で火あぶりにされた。 その後、恋人・吉三は出家し名を西運と改め、大円寺の隣にあった明王院に身を寄せ、 明王院境内にお七の念仏堂建立を悲願に、目黒不動と浅草観音間の往復10里を念仏を唱えながら日参したと言う。 道々の人々からの報謝により27年後に願いは叶ったものの、明治初めに寺は廃寺となり、 明王院の仏像は隣の大円寺に移されたそうな。 |
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薬師如来 とろけ地蔵尊&大円寺石仏群 |
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●薬師如来 躰の悪い箇所に金箔を貼ると病や患いから救われるとされ、自分の体の悪い所と同じ個所に金箔を貼ったそうな。 ●とろけ地蔵 このお地蔵様、どこが目なのか鼻なのか。判然としない。 江戸時代、品川沖で漁師が海から引き揚げたもの。長い間 波に洗われたのか、顏の造作がまるでとろけた様。 「悩み事をとろけさせてくれる」と言われている。 ●石仏群(五百羅漢像など)都の重要文化財。 江戸三大大火のひとつ「行人坂の大火」で犠牲となった人々を供養するために50年を要して造られたもの。 犠牲者は2万人とも言われている。 |
21/01/03 | HORIPRO |
芸能事務所・ホリプロ。 所属タレントは、和田アキ子氏を始め、石原さとみ、綾瀬はるか、深田恭子、妻夫木聡、松山ケンイチなど 枚挙にいとまがない。何と、敷地内に立派な建物が3棟も建っていた。 駐車場からふぃと和田アキ子氏が現れそうな・・・ |
21/01/03 | 目黒雅叙園 | ||||||||
雅叙園 庭先にある「お七の井戸」 お七の想い人・西運が 念仏行へ出掛ける前に 水垢離をした井戸 |
目黒区下目黒1丁目 目黒雅叙園は結婚式場・ホテル・レストランなどを備えた複合施設である。 一代でこの雅叙園を築いた人物は、石川県出身の細川力蔵。 小学校卒業後上京し、神田の風呂屋での丁稚奉公を振出しに、めきめきと商才の頭角をあらわし浴場経営から不動産業へと事業を拡げ 、 芝浦の自宅を改造して料亭を開く事を決意する。 中国料理を楽しみながら数々の名画を堪能できる純日本式料亭であったと言う 。芝浦が手狭になったため1931年(昭和6年)目黒に目黒雅叙園をオープン。 途切れぬ工事により百段階段を始め7棟が完成した。 その豪華絢爛な内装は「昭和の竜宮城」と呼ばれたそうな。 |
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庭園も優雅 回廊 天井と壁の優美な絵画が誘う エレベーター内部 「もっと観ていたい」すぐ目的階に着いてしまった さながらお大尽さま気分 |
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百段階段 | |||||||||
出典・ホテル雅叙園 |
今日の私達、期せずして「雅叙園百段階段企画展」に遭遇し内覧の幸運に恵まれた。入館料・1,000円/大人 名前は百段ながら、実は99段。「ひとつ手前で止めることで永遠に発展を願う意味を込めた」。 百段階段沿いには7つの座敷宴会場があり、そのうち4つは東京都指定有形文化財に指定されている。 ちなみに、映画「千と千尋の神隠し」にも登場する。 敗戦直前、贅沢禁止令下において多数の著名な芸術家を泊り込ませて内装やら絵画を作らせ、 館内を優れた芸術作品で飾ったと言う。しかし、今はその多くが散逸し所在が判としない作品も多いとのこと。 |
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百段階段 欅で作られた百段階段。現存する雅叙園唯一の木造建築である。 十畝の間 百段階段で最も格式の高い部屋 長押や床框に設えられた黒漆の螺鈿細工は必見 格天井は、荒木十畝による四季の花鳥画 |
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漁礁の間 漁礁の間は、漁礁問答の「漁」は漁師、「礁」は木こりの意。
漁師と木こりが自然の中で悠々自適に暮らす心の豊かさへの憧れ それを表すもので「養老の滝」や「浦島太郎」の話の元と言われる。 左右の床柱が漁礁問答を描いた床柱 ↓ (ズーム) 漁 樵 格天井の下・ぐるり描かれた欄間画は 平安貴族の五節句が描かれている 平安貴族の一年が豪華絢爛に目の前に繰り広げられる。 |
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草丘の間 3番目の部屋は他とは少々作りが違う。 百段階段から小廊下と階段と次の小廊下を通って部屋へ入る。 現在は40畳敷きの大広間だが、昔は奥の間と次の間。 2つの部屋が一部屋になったため仕切り部の欄間画(夏の絵)が無くなった。 とは言え、草丘の風景画が堪能できる部屋。 ↓ (ズーム) 天井画 & 欄間画 |
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静水の間 (出典・雅叙園) 手前が奥の間で左奥が次の間 静水の間は、それぞれに床の間・格天井・欄間画がある二間づくり。 廊下から入った部屋(次の間)の格天井は4枚の扇子図。 奥の間には、欄間四方に小山大月作の金箔地にススキ絵の金箔押地秋草。 扇が印象的な部屋 |
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星光の間 奥の間・次の間ともに格天井ならびに欄間いっぱいに 板倉星光の四季草花が描かれている。 欄間を彩る実のなる植物たちが、ほっこりと優しく温かい。 これは柿と西瓜(出典・雅叙園) |
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清方の間 富士山の格子 コンセプトは静かな茶室。 上品な重厚感が漂う。 凝った作りの明障子は必見 網代天井に嵌め込んだ天井画 美人画の巨匠・鏑木清方が造り愛した茶室風の部屋。 四季草花を描いた扇型天井画・欄間風俗美人画は清方の筆。 |
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頂上の間 出典・雅叙園 本日は部屋の障子を埋める様に沢山の振袖が展示されて 部屋の雰囲気や何やらが撮れない。 と言う次第で雅叙園サイトより転載。 次の間の天井画 奥の間・次の間ともに格天井 因みに、二間とも格天井は松岡映丘門下の作品。 |
21/01/03 | 太鼓橋 |
目黒区下目黒1丁目 1769年(明和6年)に完成した太鼓橋の形をした石造りの橋。 歌川広重が「江戸名所百景」にも描き広く知られている。 橋の建立には諸説あり。 ①八百屋お七の恋人・吉三(のちの西運上人)が修行で得た江戸の人々からの寄進を貯めて造ったと言う説。 ②木喰上人が造り始め、江戸・八丁堀の人達が資金を供出し、完成させたと言う説。 にしても、1700年代 多くの江戸市民の力を得たとは言え、たった1人で橋造りを遂行するのは大変な困難を要した事だろう。 かくして、この橋が出来て多くの人々の暮らしが便利になっただろう事は、想像に難くない。 なお、建造当時の橋は、1920年に豪雨で流されたそうな。 |
21/01/03 | 禿坂(かむろざか) |
西五反田4丁目あたり 「はげざか・・・じゃあ、ないよ」。ニヤニヤと息子。 江戸時代、辻斬り強盗で元鳥取藩士・白井権八が鈴ヶ森刑場で処刑され、権八と相愛の遊女・小紫が墓の前で自害した。 一方帰りが遅い小紫を案じ探しに出た禿(江戸時代、遊女の雑用などをした少女)は、 帰り道でならず者に襲われ逃げ場を失い池に身を投じた。 憐れんだ近隣の人々が禿を川の傍に葬り、その一帯の丘を「かむろ山」、前の坂を「禿坂」と言う様になったと 春の桜並木はつとに有名で、品川百景にも指定されている。 |
21/01/03 | 瀧泉寺(恵比寿) |
目黒区下目黒3丁目 別称・目黒不動尊。本尊は不動明王で、江戸三大不動のひとつ。 江戸時代、徳川家光の肩入れで沢山の大伽藍が復興され、その煌びやかさ故に「目黒御殿」と呼ばれたそうな。 敷地内に青木昆陽の墓所がある。 青木昆陽は、江戸中期の幕臣にして儒学者・蘭学者。 八代将軍・徳川吉宗の命を受けた昆陽は、当時は西日本で知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培の試作を始め、 関東地方にサツマイモの栽培を普及させた。 飢饉の折には、このサツマイモが多くの人々の命を救い、 いつしか昆陽は「甘藷先生」と呼ばれるようになったとか。 |
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水かけ不動明王様 本堂へ向かう僧侶たち 湯放処(ゆまりところ) 平たく言えば「トイレ」 戸の先に便器が見える 湯放処…何とも奥ゆかしい呼び名。 |
21/01/03 | 三折坂(みおりざか) |
目黒区下目黒4丁目 目黒不動から仁王門へ向かう坂道を三折坂と呼ぶ。 『三つに折れ曲がった形状から三折坂とよばれるようになった。 また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りて行くので「御降坂」と読んだともいわれる』(出典・目黒区HP) 高い塀にうっそうと茂る木々、建ち並ぶ住宅。 それらに挟まれて縮こまる様な三折坂は 、静寂ながらちょっとした窮屈感も受けるが、 縁日や10月の甘藷祭りには大勢の参拝客で賑わうとのこと。 |
21/01/03 | 蟠龍寺(弁財天) |
下目黒3丁目 行人坂付近にあった称明院を増上寺の霊雲上人が現在地に移し、1709年 蟠龍寺と改名再建。 本堂横の祠の中に、石仏の弁財天があった。ちんまりと愛らしい。お堂の近くには、唇に真っ赤な紅をひかれた「おしろい地蔵」。 美人になるご利益がある女人必見のパワースポットとのこと。 |
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弁財天 |
21/01/03 | 妙円寺(福禄寿・寿老人) |
港区白金台3 瀧本弾正忠光(元 室町幕府13代将軍・足利義輝の家臣)が創建。 日蓮宗の僧に帰依して瀧本院日忍となった瀧本が、幕臣当時に足利義輝から賜った 「妙見大菩薩」や「寿老人」「福禄寿尊」は、当寺に祀られている。 境内に墓地があるせいか、都心の閑静な住宅街にあって、 ここだけすっぽりと時間が止まっている様な。 周囲の近代的な街並みの中、凛と自己主張している様が潔い様にも寂しげにも・・・ |
21/01/03 | 瑞聖寺(ずいしょうじ)(布袋尊) |
港区白金台3 寛文10年(1670年)に創建、中国・明より来日した木庵により開山。 東京大空襲にあった東京において今に残る数少ない江戸時代の仏教建築として国指定の重要文化財に指定されている。 池に映る姿は、さながら金閣寺のごたる。 一つ前に訪れた妙円寺がまだ記憶に新しく、この寺の姿がやけに近代的に目に飛び込む。 寺と言うよりも、近代建築の粋と言う印象。 |
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布袋尊 |
21/01/03 | 覚林寺(毘沙門天) |
港区白金台1 加藤清正公ゆかりの寺。 1631年小湊誕生寺の18世可観院日延が開山し創建。「白金の清正公様」と慕われている。 この日延の出自は諸説ある。豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、 加藤清正に捕らえられ日本へ連れてこられた2人の朝鮮王子のひとり、と言う説。 また、孤児を清正が拾い育て長じて僧侶になった、と言う説。 境内のあちらこちらに「清正公」の文字が踊る。近所には清正の名が入ったバス停があった。ここは、加藤清正一色の街。 |
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清正公堂 加藤清正の位牌を祀る |
21/01/03 | JR高輪ゲートウェイ駅 |
港区港南2丁目 2020年春、JR山手線・品川駅と田町駅の間に開業。 正月ながら自粛して巣ごもりしている人々が多いせいか、人出はパラパラ程度。 「高輪ゲートウェイ駅」という駅名は、名称撤回署名運動が起こる大きな話題となった。 確かに、駅名としては長すぎて言いにくい。 一般公募の中で多くの支持を集めた「高輪」の方が、古くから慣れ親しまれてきた名だけにストンと落ち着く気がするが。 JRに変更の方針は無いそうな。 2階には、商品を手に取るだけで決済が完了するウォークスルー型完全キャッシュレス店舗の無人AI決済店舗「TOUCH TO GO」があった。 クローズ中だったのは残念。 最先端のAI技術や新スタイルの近代的な店舗が2024年のまちびらき迄には出揃う予定。ちょっと、気になる。 |
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改札口 |
21/01/03 | 権之助坂商店街 |
赤い屋根がいかにも昭和 |
出典・目黒区区制情報センター |
権之助坂は、JR目黒駅から目黒新橋までの坂。 時は元禄、重い年貢に苦しむ農民たちのために年貢軽減を直訴し処刑された菅沼権之助を慕った人々が、 開かれた新坂を「権之助坂」と呼んだと言われる。 権之助坂 以前は、行人坂が主要生活道路だったが、急な坂のため積み荷を運ぶのに大層な苦労をしていたと言う。 時は移り、権之助坂を主要道路として暮らすうち、次第に交通量が増え車の通行を捌くために坂の途中にバイパス道を設けた。 ために、権之助坂は一方通行となったそうな。 さて、沿道に貼りつく権之助坂商店街。 江戸時代は目黒不動尊への日帰り旅として庶民の人気スポットだったと言われるが、 戦時中は僅かな商店があるだけの寂しい所だった様だ。 戦後になり露店が建ち並び、やがて商店街は地元客を相手に大繁盛したと言う。 ところが、昭和期にビルが建ち始め中央からの有名店や老舗が進出するに至り、 地元商店街への客足はパタッと遠のいてしまう。これも、時代の流れか。 かくして衰退の道をひた走る商店街かと思いきや、 どっこい その昭和レトロ感が醸し出す時間空間に魅かれるファンが多いのだと。 シロガネーゼが闊歩するお洒落な街・目黒に、こんなディープスポットがあったとは。 |
21/01/03 | 瓢喜(ひょうき) 八重洲店 | |
東京都日本橋3丁目 地下鉄・日本橋駅から徒歩3分にある瓢喜は、全席・個室と掘りごたつの京会席の店。 端緒は、年末 息子からのLineトーク。 「正月、七福神の後で行く店を決めたけど、料理は、松坂牛とクエのどっちがいい?」と。 「未だかつて食べた事が無いクエ!」と私。 |
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幻の高級魚・クエ出汁しゃぶコース | ||
お品書き |
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★八寸 | (上から時計回りに) 胡麻豆腐 ミノ卸ぽん酢和え 蟹酢水菜・生姜 いくらおろし |
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★凌ぎ | 鯖炙り寿司 |
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★造里 | 鰤湯引き (鬼おろし・香味ぽん酢) |
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★出汁しゃぶ | くえ 野菜盛り 鍋に投入 |
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★食事 | 生蕎麦(〆に鍋へ) |
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★デザート | グレープフルーツゼリー |
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3名で利用するのは申し訳ない程に広くしっとりとした個室。 外の寒さからも解放され、掘りごたつに足を入れると、心の芯から安堵の思いが湧いて来た。 時々聞こえてくる隣室からの幼い子供の声は、家族での楽しい会食風景を彷彿とさせられ、 ほっこりと微笑ましい。 さて、くえ。 「くえ」とは言え、そうそうは喰えない高級な代物。 少し緊張気味で鍋の出汁じるにひらひら泳がせ、口へ運ぶ。 「あぁ、これが くえ・・・。喰った」。口の中でほろほろと蕩けてしまいそうな。 |
完 |
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霞関山太宗寺 | 浄土宗 | 布袋尊 |
稲荷鬼王神社 | 神道 | 恵比寿 |
大久保永福寺 | 曹洞宗 | 福禄寿 |
厳島神社 | 神道 | 弁財天 |
春時山法善寺 | 日蓮宗 | 寿老人 |
小笠原伯爵邸 | / | / |
大乗山経王寺 | 日蓮宗 | 大黒天 |
袖摺坂 | / | / |
鎮護山善國寺 | 日蓮宗 | 毘沙門天 |
神楽坂 前田 | / | / |
熱海湯 | / | / |
赤城神社 | / | 番外 |
漱石山房記念館 | / | / |
穴八幡宮 | / | / |
子育て地蔵尊(源兵衛地蔵尊) | / | / |
高田馬場駅と鉄腕アトム | / | / |
20/01/02 | 霞関山太宗寺(布袋尊) |
本堂 |
新宿2-9-2 メンバーは例年通り、家人と息子と私。新宿御苑駅で待ち合わせ、いざスタート。 太宗寺は、1596年頃に僧・太宗が庵を造り太宗庵と名付けたのが始まり。 のちに時の領主で徳川家家臣・内藤正勝から寺領として7396坪の寄進を受け、以来 代々内藤家との仏縁を深めてきた。「内藤新宿」の名の由来である。 |
閻魔堂 不動堂 塩かけ地蔵 銅造地蔵菩薩坐像 |
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焔魔堂には、一丈八尺の江戸一巨大な閻魔像があるそうな。 ある時、眼球が水晶であるとの噂を信じた者によって密かに片目が抜き取られ 、一躍その名を知られる事になったとか。 |
20/01/02 | 稲荷鬼王神社(恵比寿) |
社殿 |
歌舞伎町2-17-5 天保2年(1831年)、大久保村の氏神・稲荷神と熊野の鬼王権現を合祀し稲荷鬼王神社となり、 鬼王の名を持つ日本唯一の神社となった。 |
参道に掲示された日本各地の雑煮の写真パネルが楽しい 「力様(りきさま)」と呼ばれる手水鉢 (新宿区指定有形文化財) 夜泣き封じのご利益があるそうな 天水琴 社殿・屋根の雨水を大甕に溜め、少しづつ地中・水琴窟に注ぎ音を奏でる |
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神社名の由来は、平将門の幼名が「鬼王丸」と言ったことから、と言う説もあるそうな。 節分には、「福は内、鬼は外」ではなく「福は内、鬼は内」と豆をまく風習が今に残っているとのこと。 |
20/01/02 | 大久保永福寺(福禄寿) |
福禄寿 |
新宿7-11-2 慶安元年(1648年)創建。 |
大日如来坐像&地蔵菩薩像 出典:一般社団法人プレスマンユニオン・東京トリップ |
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本堂前に鎮座するのは、宝暦6年(1756年)に長谷川国得が鋳造し建立した大日如来坐像と、 嘉永6年(1853年)建立の半跏趺坐像(左脚を垂れ右足を曲げて坐す)の地蔵菩薩。 露座で日々風雪に耐える姿は、やがて風化してしまいそうで痛ましい。 と、思ううちに写真を撮り漏れてしまった。 |
20/01/02 | 厳島神社(弁財天) |
応徳3年(1086年)源義家が征伐に出るにあたり広島県の厳島神社へ向けて先勝祈願をし、
勝利を得た帰途ここに立ち寄り創建したと言われる。参道は南北に通り抜けが出来る。 ご利益は「縁切り」「苦境の打破」。義家が苦境を打破し、苦難を切り抜けたことが、その所以。 高層ビルの谷間、交通量の多い交差点付近にひっそりと建つ。 喧騒に取り込まれることも無く、ぶれもせず凛と建つ姿が清々しくほっとする。 |
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山門 |
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元禄時代、徳川綱吉の「生類憐みの令」により、この地に25,000坪の犬小屋が設けられていたそうな。 |
20/01/02 | 春時山法善寺(寿老人) |
本堂 |
新宿6-20-16 鳥取藩主・池田綱清から七面明神像(七面天女像)を拝領した実相院日相上人が、建物を建立したのが、その始まり。 本堂には七面明神像(新宿区指定有形文化財)が安置されている。 七面明神とは、七面山(山梨県身延山の北の山)に住む女神のこと。 唐風の衣裳に宝冠を被り、左手には火災如意宝珠(仏に献上し成仏を約束された品)、 右手に鍵(正法を開き人々を救う)を持つ。 |
山門 浄行菩薩 |
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「法善寺なら水掛けは、どこ」とキョロキョロ見れば・・・あった。 その名浄行菩薩。法華経の菩薩様で、 水により垢や穢れを清める様に煩悩の汚泥を洗い流してくれると言われている。 自分が治してもらいたい部分を観音様のそれへ水をかけ、一心に唱え磨くと不思議と治るそうな。 |
20/01/02 | 小笠原伯爵邸 |
新宿区河田町10-10 一際目を惹く瀟洒な洋館。 ここは昭和2年に小笠原家第30代当主の本宅として建てられたスパニッシュ様式の「小笠原伯爵邸」。 スペイン料理の店として、伝統と格式をスパイスにその重厚な歴史と雰囲気を余すことなく今に伝えているそうな。完全予約制。 一度は入ってみたいものだが、残念ながら本日は定休日なので、塀越しに見るだけ。 |
20/01/02 | 大乗山経王寺(大黒天) |
原町1-14 慶長3年(1598年)、尊重院日静が開山。 その際、日法作の大黒天像を見延山久遠寺から移して創建した。 度重なる火災にも焼け残ったことで「火ぶせの大黒天」と呼ばれ庶民の信仰を集めるに至る。 境内には、明治期の小説家・二葉亭四迷の父母・兄・妻の遺骨が納めれている。 |
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社務所と大国堂(?) 被爆クスノキ |
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本堂でお詣りし、その下の社務所へ。 ここには「大黒天」の提灯が掲げられているので、大黒さんが祀られているのかも? 無造作に並んでいる様に見える人達、実は右が参拝で、左が御籤やら札を買う目的の人の列なのだ。 ややこしい。 墓の中には「被爆クスノキ」が元気に命をつないでいた。 長崎の原爆投下時、爆心地近くの山王神社にあったクスノキは、被爆後2年程で新芽を芽吹き力強く成長。 その後、長崎大学の学生ボランティアサークルから苗を譲り受け、この地で大切に育てているそうな。 生命の強さを目の当たりにし、ただただ感嘆! |
20/01/02 | 袖摺坂(そですりざか) |
袖摺坂 |
坂の多い神楽坂。中でも袖摺坂は人気漫画「僕とシッポと神楽坂」の舞台で、ドラマ化もされた聖地だそうな。 横寺町と箪笥町の境界から大久保通りへ続く、20段前後の短くて狭い石段の坂道。 その狭さ故、すれ違う人が互いの袖を摺り合わせる程だったとか。 袖を摺り合わせる様に躰を斜にし、相手を気遣いながら狭い坂を通る。 互いが通わせたであろう心遣いが、目に浮かぶようだ。 |
説明柱 |
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何故か、赤穂浪士の討ち入り装束の様な「黒い綿入れの帽子つき背当て」が、説明柱の上に括られていた。 まさか、新宿区役所が江戸当時を偲ばせるために・・・では、あるまいに。 とすれば、ここを通り過ぎた母親の背の赤ん坊に着せていた物が脱げた「落とし物」か? |
神楽坂通り ここを下れば、飯田橋 |
20/01/02 | 鎮護山善國寺(毘沙門天) |
新宿区神楽坂5-36 開祖は徳川家康。開山は日惺上人。 通称「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め「江戸三毘沙門」と呼ばれる。 本尊の毘沙門天像は、日惺上人が池上本門寺へ入山の折り関白・二条昭実から贈られたそうな。 が、御簾の奥ゆえ、特別の日以外は一般人の御目文字はかなわぬ。新宿区指定有形文化財。 もうひとつのお宝は、本堂の左右に阿吽一対で置かれた狛虎像。 犬ならぬ虎なのが人気を呼んでいるらしい。 どう見ても、虎と言うよりも怪獣か猫背な類人猿?あわわわ、失敬。 〝狛虎″は珍しいので、写真に残せば良かったと後悔しきり。新宿区指定有形文化財。 |
20/01/02 | 神楽坂 前田 | |
新宿区神楽坂3-6 加賀生麩割烹 今年の七福神巡りは、3つ目・4つ目・5つ目の寺社同志が近かったので、思いの外 早めに完了。 神楽坂の路地裏「芸者小道」は、 昔 芸者さんがこの道の先にある「熱海湯」で一番風呂に入ってから夜のお座敷に出たため、 誰言うとなく「芸者小道」と呼ばれる様になったとか。 今にも小道から芸者さんがひょいと出て来そうで、小粋な神楽坂の往時が目に浮かぶ。 その小道にあるのが、この店。予約をしていないが、ダメ元で聞いてみたら「お正月メニューで昼夜共通コースになりますが」とのこと。 通されたのは、2階の高座椅子の個室。 小路を入った立地のせいか、通りの喧騒とは別世界の静けさだ。飛び込みで、これは有難い。 神楽坂の隠れ家的な一軒家で本格加賀料理に舌鼓を打つ。今年も健康で穏やかな一年となりますように。 |
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正月コース@8000円 | ||
★お屠蘇 | ||
★飲み物(オーダー) | 生ビール |
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★前菜 | 黒豆・生麩もみ味噌 カステラ玉子・紅白膾胡桃和え (上左から時計回り) |
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★御椀 | 蛤真薯(結び人参 大根) |
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★造り | 旬の鮮魚 |
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★治部煮 | 鴨 源助大根 モロッコ隠元 梅麩 簾麩 山葵 |
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★焼物 | 鯛西京焼き、金柑密煮 田楽 |
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★酢物 | 蛸油香漬、独活、法蓮草 |
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★食事 | 白ご飯、そぼろ、味噌汁 香の物 |
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★水菓子 | 紅白麩あんみつ |
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★煎茶 | 美味 |
20/01/02 | 熱海湯 |
新宿区神楽坂3丁目6 「芸者小道」の名前の所以とされる「熱海湯」。 昭和29年築の宮づくりの銭湯で、浴室の鯉や金魚のタイル絵の美しさが大人気だとか。ロケ地としても有名。 飲料自販機には襟足の美しい芸者さんが描かれ、そこだけ昭和のまま時が止まったかのようだ。 漂う昭和情緒に心惹かれ・・・。しかし、本日は休業日。残念。 |
20/01/02 | 赤城神社 |
ガラス張りの拝殿 |
新宿区赤城元町1-10 群馬出身の豪族が牛込へ移住し、故郷・赤城神社の神様をお招きしたのが始まりと言われている。 赤城神社は、新宿山手七福神には入っていないので七福神の番外。 だが、いつ来ても若い女子が多い。 それもそのはず、ここはアニメ「僕とシッポと神楽坂」の舞台なのだ。 嵐の相葉雅紀が主演のため、嵐ファンの聖地になっているらしい。 のみならず、場所柄、芸能人やミュージシャンのヒット祈願もここで行われる事が多いそうな。 境内にはお洒落なカフェとマンションが建ち、斬新。 と思ったら、建築家・隅研吾氏の設計による「東京一お洒落な神社」として、有名らしい。 |
大鳥居 正面が拝殿 右の木の横がマンション その奥がカフェ 珍しい狛犬 何故に「おかっぱ頭」なの? |
20/01/02 | 漱石山房記念館 |
「漱石山房通り」の案内柱 |
猫塚(猫の墓) |
新宿区早稲田南町7 漱石が生涯の9年間を過ごした地に、漱石生誕150周年を記念して建てられた「漱石山房記念館」。 昭和20年の空襲で焼失した漱石邸の、庭と部屋の一部が再現されているとのこと。 今日は生憎の休館日。しかし、傍に立つ小さな管理人小屋で、ざっくりながら漱石資料を閲覧できた。 記念館の庭にある猫塚には、夏目漱石の作品「吾輩は猫である」のモデルとなった、 日本中で最も有名な猫「吾輩」が眠る。 漱石が飼っていた文鳥たちと共に。 |
20/01/02 | 穴八幡宮 |
参道の夜店 |
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新宿区西早稲田2丁目 (旧名・高田八幡宮)。蟲封じのご利益があると。 1062年、源義家が奥州凱旋の途中、この地に立ち寄り兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのが始まりと言われる。 1641年、社僧・良晶が庵を造るため山裾を切り開くと横穴を発見。 中に金銅の御神像が現れ、以来「穴八幡宮」と称する様になったとか。 これにより、3代将軍・徳川家光が穴八幡宮を幕府の祈願所・総鎮護としたそうな。 八幡宮の一帯は、前方後円墳と言われる。 この形の古墳は、3世紀から7世紀 “卑弥呼”や“スサノオ尊”その“統一王朝”が、全国に拡げたとされる。 ならば、ここに眠る人は・・・。古代ロマンが膨らんでいく。 作家・五木寛之が上京したばかりの頃、穴八幡宮の床下で寝ていて追い出された、という逸話も有名。 夜も更け足元も怪しい暗闇の中、大勢の参拝客が行き来する境内で 「さて“お御籤”でも買って今年一年の運勢でも占おうかな」と愚息。 しかし、社務所では御籤を置いておらず、横に「当宮では御籤の販売は致しておりません」との大きな看板が掲げられているばかり。 諦めて参道を出口へ向かうと、若いカップルが弾けた歓声をあげ叫んだ。「大吉~」。 その手には、御籤が硬く握りしめられていた。 もとより、この御籤は八幡宮で販売したものではない。 境内の夜店の一つが、商品として販売しているに過ぎないのだ。これで、ご利益があるのか? 大吉を引き当てて大喜びのカップルに水を差す気は無いが、二人はそれを承知しているのか? 後味の悪い思いが、尾をひいた。 |
20/01/02 | 子育て地蔵尊(源兵衛地蔵尊) |
新宿区西早稲田2 新宿区文化財指定 元禄時代末、この地を開墾した小泉源兵衛の功績を称えた村人たちが、 この地を“源兵衛村”と名づけ地蔵を安置。 東京空襲の際は、この地域一面が焼け野原になったが、この周辺は焼け残り、 地蔵尊に寝泊まりした被災者も多かったと言う。 |
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竹恵の輪 |
20/01/02 | 高田馬場駅と鉄腕アトム |
西武新宿線の高架下の壁画 |
新宿区高田馬場駅1丁目 赤穂浪士四十七士の1人・堀部武庸(安兵衛)の“高田馬場の決闘”から駅名につけられたとか。 読み方は「たかだのばば」。 高架下に手塚治虫の漫画の壁画が並び、圧巻。 そも初めは、地元商店街が高架下の暗さを案じ、その解消に奔走したため。 苦労の甲斐あって(?)効果絶大。今では明るく派手やかな高架下だ。 さて、何故にここがアトムかと言えば、手塚治虫の「虫プロ」が高田馬場にあるからだそう。 ちなみに、JRの発車ベルも「鉄腕アトム」のテーマソング。 テンションが、一気に跳ねあがる。 |
完 |
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宝珠院 | 弁財天 |
熊野神社 | 恵比寿 |
狸穴坂(マミアナザカ) | / |
浪花家 総本家 | / |
十番稲荷神社 | 宝船 |
鳥居坂 | / |
暗闇坂 | / |
七面坂 | / |
大法寺 | 大黒天 |
一本松坂 | / |
元麻布ヒルズ | / |
氷川神社 | 毘沙門天 |
安藤記念教会 | / |
グランドハイアット東京 | / |
櫻田神社 | 寿老神 |
天祖神社 | 福禄寿 |
久國神社 | 布袋尊 |
勝海舟・坂本龍馬の師弟像 | / |
赤坂離宮・赤坂本店 | / |
出典:ザ・プリンスパークタワー東京 |
19/01/02 | 宝珠院(弁財天) |
芝公園4-8-55 顔ぶれは、昨年に続き息子と家人との3名。 今年は麻布十番を中心に巡る6社2寺(宝船を含む)8箇所を参拝する。 午前10時、都営・赤羽橋駅よりスタート。 地上へ上がると、目の前に東京タワーが聳える。 まずは、タワーの足元・宝珠院へ。 宝珠院は1685年、増上寺三十世霊玄上弁天堂を建立し開創。 高さ2mに及ぶ閻魔大王木像は、港区の指定文化財。 のち、天下平定した徳川家康がこの弁財天を信仰したそうな。 本堂脇に参道を形作る様に赤い旗が並び、その左手には墓石を寝かせた洋式風の墓地が広がる。 東京タワーをのぞむ、まさに墓の超超一等地。 |
とうふ屋うかい | 野田岩 |
「予約が取り難いお店」とは知りつつも・・・ 「お昼 ここで懐石も良いね」と私 「まだ二つしか巡ってないよ、七福神」と息子。 それ以前に、今日は店の正月休業で庭木の手入れ中(がっくり) |
ご存知、鰻の人気店。 「鰻も良いね」と限りなく前のめりの私 「こっちは良くても、あっちは都合が悪いってさ」と息子。 見れば、店先に正月休みの張り紙が・・・ |
19/01/02 | 熊野神社(恵比寿) |
麻布台2-2-14 起源はとても古いが、1703年(元禄16年)の火事で記録が焼失し詳細は不明。 かの島崎藤村がこの地・飯倉に住まい「大変良い散歩道」と作中に記した処から、藤村も気に入りの場所だった模様。 社紋は八咫烏。 サッカー日本代表のエンブレムにもなっていることから、サッカーお守りを頒布しているそうな。 ここでふと気づいた。なぜか参拝者がまばら。 昨年の日本橋コースは「押すな殺すな」の人出で遥拝せざるを得なかったのに比べると、 これが正月2日とは思えない静けさ。 心なしか、しっとりと落ち着いた雰囲気が、いかにもセレブの街。 |
19/01/02 | 狸穴坂(まみあなざか) |
さて、このあたり。多くの坂と、各国大使館がにょきにょきと建ち並ぶ。 中でもこの坂は、某大使館の脇の坂道なので、警察官たちの警備が厳しく緊迫した空気が漂う。 写真を撮るのも、ドキドキ。一説によると、某大使館のことを隠語で「マミアナ」とも呼ぶそうな。 漢字の知識だけでは決して読めない狸穴坂とは 「マミは、雌狸・ムササビ。またはアナグマの類で、昔、その穴が坂下にあったという。 銅や雲母を採掘する採鉱の穴でもあったと言う説もある」と写真の表示木の裏に記されていた。 江戸時代、大奥を荒らしまわった古狸がここの洞穴に住んでいたとも。 「マミアナ」は、雌狸のイメージからは想像もつかないお洒落な語感だと思うのだが。狸さん、失敬。 |
外務省飯倉公館 | 鳥居坂住宅 警視庁 |
主に外相級の会談や、その後の昼食会・夕食会を開く施設。 |
警視庁の職員住宅。家賃が安~~~い。 |
19/01/02 | 浪花家 総本店 |
麻布十番1-8-14 前を通りかかったら、息子がぼそっと呟いた。 「いつもは混んでいて何時間も並ぶんだけど、今日は並んでないな。一度食べてみたかったんだ」。 泳げたいやきクンのモデルになった「天然モノ」が食べられる大人気店。 「天然モノ」とは、一丁焼きとも呼ばれる焼きごての様な鋳型で丁寧に手焼きしたもの。 私と家人は、東京・散歩で16年1月に訪れて以来の再訪。 幸運にも、すぐに二階のイートインへ案内された。 オーダーしたのは、「甘味お飲み物セット・たい焼き1匹セット」。@600円。 なるほど、鯛だから匹と数えるのか。 たい焼きが美味しいのは勿論のこと、煎茶が物凄く美味い。 愚息は4煎まで煎れて飲み倒し。 急須の蓋を開けると、出がらしの筈の茶葉にして、綺麗な若緑。 まだまだ美味しく飲めそうな気がするほど。 |
19/0/02 | 十番稲荷神社(宝船) |
麻布十番1-4-6 港七福神めぐりの特徴である七人の福の神を乗せた宝船がある神社。 |
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宝船&かえる | |
鳥居の左側に宝船、右側に「ガマ池伝説」のガマ親子の石像が鎮座する。 かえる(ガマ)が突如 池から現れて、猛火を消したという伝説から、火の災難から守ると崇められる様になったそうな。 近年は「カエル」にかけて、「若ガエル、幸せカエル、落し物カエル、何でもカエル」とのご利益が信じられ人気を呼んでいる。 「何でもカエル」って・・・ |
19/01/02 | 鳥居坂 |
右の高い塀が シンガポール大使館 |
六本木5丁目 この界隈は、フィリピン大使館、シンガポール大使館、東洋英和女学院などがある。 明治・大正時代には、華族・三条家や戊辰戦争で有名な大鳥圭介の邸宅が連なるセレブで優雅な地域だったそうな。 名前の由来には諸説あり。 江戸期この地に鳥居氏の屋敷があったため、その名に因んだと。 また、坂の上に氷川神社の鳥居があったからとも。 坂の上にある国際文化会館(旧 岩崎小弥太邸)は、もともと幕末まで多度津藩主・京極壱岐守の江戸屋敷で、 明治になり井上馨に所有となり、さらに幾人かを経て岩崎の所有となったが、 戦後は国有地となり民間に払い下げられ国際相互理解を目的として国際文化会館が建てられた。 建物には、宿泊施設・会議施設・図書館・レストランなどが配され、 庭園(旧岩崎邸の庭)は、港区の名勝として有名だそうな。 ただ会員制なので、レストランや宴会場は非会員も利用できるが宿泊はメンバーのみ。 時のうねりに翻弄され紆余曲折をくぐりぬけてきたその地を見てみたい思いが湧いてくる。 せめてレストランでランチでも摂りたいが、今日の目的・七福神めぐりはまだ先が長い。 息子に促され、断念。 |
19/01/02 | 暗闇坂 |
麻布十番2丁目 別名:くらがり坂・幽霊坂・宮村坂(宮村という地名に因む) かつては、狭い坂道に鬱蒼と木々が覆いかぶさっていたため昼なお暗く見通しが悪かったそうな。 ために「妖怪や幽霊が出る」との伝説が語り継がれた。 名前の由来は、そのあたり。 事実、追い剥ぎが出没したようだ。今はその面影は皆無。 中腹の左にオーストリア大使館が建ち、さらに少し上がると頂上。 かつては、この狭くて暗い坂は東京の真ん中にぽっかり残った下町だったと言う。 伝説のロックバンド・はっぴいえんどの松本隆氏(のちに人気作詞家)は、青山に生まれ暗闇坂を通って三田へ通学した。 この隣町は、松本少年の目に住み慣れた青山とは全く別世界として映ったことだろう。 |
七面坂 | 七面坂 |
麻布十番2丁目 坂の東側にあった本膳寺に七面大明神の木像が安置されていた処から、七面坂と呼ばれたそうな。 ただし、本膳寺は戦後 五反田へ移転し、七面大明神もそちらへ転居した模様。今は、名だけが残った。 このあたりは、坂だらけ。都内でもっとも坂の多い区なんだとか。 上ったり下ったりしているうちに、坂どうしの位置関係がわからなくなってきた。 |
19/01/02 | 大法寺(大黒天) |
元麻布1-1-10 大黒坂の北側にある日蓮宗の寺院。創建1597年(慶長2年)。 弁財天の顔と冠に毘沙門天の鎧をまとい、大黒天の袋と小槌を持った三神具足の大黒天像を祀る。 寿福、除災、特幸、円満など様々なご利益があるそうな。 近所の人々は、大黒天に因み「大黒さま」とも呼んでいるとか。 門を潜り数段の階段をあがると、すぐに本堂。 境内はとても狭い。 その一角で甘酒のふるまいがあり、用意された縁台でしばしほっこりと寛ぐ。 品川ナンバーの高級車を門前に止めシュルっと降りたったのは、意外にもお一人様の高齢女性。 いつの間にか、後ろの縁台で甘酒を両手で包み込んでいた。時間がゆっくりと流れていく。 余談ながら、近くには「赤穂浪士」で名高い吉良上野介の下屋敷があったとのこと。ちなみに面積は1756坪。 |
19/01/02 | 一本松坂 |
港区元麻布1丁目 名の由来は、坂の南側に一本松があるため。 かつて、源経基がこのあたりの民家に宿をもとめ、翌日の朝 この木に装束をかけ麻の狩衣に着替えたと伝えられている。 現在も残る一本松は、植え継がれて4代目。 身を縮める様にマンションに寄り添って植わっている。 さしづめ、経基が現代へ瞬時に時間移動したならば、 脱いだ装束を木にかけるなどマンションの人目を思えば憚られ、 木の根元にでも丸めて行くしかないかな。 なかんずく、この設定で優雅に着替えなど、紛れも無く怪しいおじさん。 しばし、空想の世界を彷徨い一人にんまり。 |
19/01/02 | 元麻布ヒルズ |
元麻布ヒルズフォレストタワー |
元麻布1丁目 超セレブな芸能人や著名人が住む「元麻布ヒルズ」。 ちなみに、渦中のカルロスゴーン氏の日本の自宅がここ。 「元麻布ヒルズ」は森ビルにより開発された高級マンションで、高層棟1棟と低層棟2棟との計3棟で構成されている。 「森の都市」をコンセプトとするだけに、敷地の半分を木々が占める贅沢な空間は、 まるで森の中に住む様な。のみならず、ヒルズ内にはスパやフィットネスルームや スカイラウンジ・ワインセラー・レストラン・ショップなどの施設を備え、 敷地内でほぼ生活に必要なものは賄える設備を備えているとのこと。 居住者には、嵐の○○やアンジャッシュの●●などなど。 いずれにせよ、セキュリティーが厳重で一般人が足を踏み入れるのは難しい。というか、無理。 |
19/01/02 | 氷川神社(毘沙門天) |
元麻布1-4-23 江戸氷川七社のひとつ。 元号・万治の時代(1658~1661)、現在地から300m程 北の一本松あたりから当地へ移転したようだ。 鳥居を入ると右手に大きな神輿を収蔵する神輿蔵があり、左手に神楽殿。 本堂の鮮やかな朱色が目に沁みる。 ちなみに、写真の後ろに写りこむマンションは、前を通ってきたばかりの元麻布ヒルズフォレストタワー。 実はこの神社、1990年代に社会現象を巻き起こした「美少女戦士・セーラームーン」の巫女・火野レイが住む 神社のモデルとなったそうな。いわば、セーラームーンの聖地。 今でも、日本のみならず海外からの参拝者も多いとか。 「参拝しなきゃぁ、毘沙門天に変わって お仕置きよ!」 |
19/01/02 | 安藤記念教会 |
高級住宅街の中、都内でも珍しい総石造り(大谷石)の教会があった。 箱館戦争で榎本武揚に従軍した安藤太郎氏は、明治期、初代ハワイ総領事に就任し洗礼を受けて、 ハワイ初の日本人教会を設立。 帰国後、夫人の意思により大正6年(1917年)に自宅などの全財産を神へ捧げ、この教会を創設したとのこと。 建物は、東京都選定歴史的構造物に指定されている。 正面の大きなステンドグラスは、巨匠・小川三知の作品。まるでメルヘンの世界へ誘われる様な・・・ 建物の中を見るには事前の許可が必要らしいが、毎日曜日の礼拝に参加すれば誰でも建物の中へ入ることが出来る。 一度、行ってみたい。 |
19/01/02 | グランドハイアット東京 |
出典・リンリンベルベル様 急を要し写真は撮り漏れ |
あろうことか、ここへ来て家人が生理現象に見舞われた。 先刻のたい焼き店・浪花家では、五煎ほども煎茶を飲んだのだもの。 そりゃぁ、当然のなりゆき。 とは言え、何とか事態を解消せねば、と近くのコンビニ店へ飛び込んだが、客へのトイレ提供はなし。 さて、どうしたものか。 つと見ると、信号の向こうに、かの有名な超高級ホテル「グランドハイアット東京」が! 青信号に変わるなり、ためらう私と息子を尻目に家人は猛ダッシュでホテルへ消えた。 用を足してロビーを見回せば、大勢の旅行客が普段着でキャリーバッグを手にしていた。 「今は中国からの観光客も多くなって、随分カジュアルになったな」と目を見開く息子。 たしかに、一昔前なら利用客以外はとても入れなかった。 「差し迫った用とは言え、俺にはとてもこの目的でここへ入る勇気はないな。 とにもかくにも、一生の思い出になった」と息子。 帰宅後、新聞の総理動向欄を見たら、正月休暇で 安倍総理がこのホテルに宿泊中だった。 私たちが訪れた時間はゴルフに出かけた後で、入れ違いで戻って来たようだ。 総理と一般人では比べるまでもないが、我らの訪問理由がいかにもショボイ・・・。 |
19/01/02 | 櫻田神社(寿老神) |
西麻布3丁目2-17 六本木ヒルズのほぼ隣に鎮座。 1184年、源頼朝により現在の霞ヶ関・桜田門外に奉斎されたのが、そも初め。 1624年 現在の場所に遷られ、1189年 頼朝が30貫の田畑を寄進し農家の田と区別するために、 畦に桜を植えたのが「櫻田」の由来(東京都神社庁より)とか。 以来、このあたりはこの神社の名に因み、麻布桜田町という地名となった。 が、1967年の住居表示実施に伴い六本木6丁目と西麻布3丁目に改められたため、 現在は麻布桜田町と言う地名はない。 毛利邸(現・毛利庭園)で生を享けた乃木将軍の近隣で生まれた新撰組の沖田総司が、 この櫻田神社でお宮参りをしたことは、周知の事実。 テレ朝通りに面した一の鳥居を潜ると、手水舎までは狭い参道。 マンション郡の中でひっそりした境内で歩を進めると、 過去へとタイムスリップした気分にさせられた。なぜかホッとする。 |
19/01/02 | 天祖神社(福禄寿) |
六本木7-7-7 1384年(南北朝時代)の創建とされる。 当時、この社に夜毎、品川沖から龍が灯明を献じに来たという故事から、龍土神明宮とも呼ばれる。 社は、新国立美術館ちかくにひっそりと佇む。 一昔前に近隣にひしめいていた高級料亭などが、六本木ヒルズの出現以来 お洒落なスポットへと変身。 そんな派手な地域の中での地味(?)な神社ではあるが、凄いのが住所。 六本木7-7-7と7が3つも並ぶ。偶然とは言え、いかにも“福”が棲みついているような~。 |
19/01/02 | 久國神社(布袋尊) |
拝殿 |
六本木2-1-16 創建年は不明。 戦国武将・太田道灌により、鎌倉時代の名刀工・粟田口久国 作の刀が寄進された処から 久国稲荷神社と呼ばれる様になったと言われる。 祀られている布袋尊は、珍しい陶器製。 本殿奥に鎮座しているとのこと。 なお、拝殿に掛けられた額の「久國神社」の文字は、勝海舟の筆。 広くはない境内、その奥に公園が併設されていた。 子どもの頃、家の近くの神社は、こんな様子だった。 子どもたちは、石蹴りをしたり、小石で土を掘ってアンモナイト探しをしたり。 ・・・いつしか、遠い昔へと引き戻されてゆく。 |
19/01/02 | 勝海舟・坂本龍馬の師弟像 |
勝&龍馬 |
2016年設置。老人ホームの敷地内に、何故 勝?何故 龍馬? 実はこの地は、勝の旧邸宅跡なのだ。 座っているのが勝で、傍らで腕組みをしているのが龍馬。 ともに、アメリカの方を見やる様に東向きに設置された。 それは、ふたりが外国へ目をむけた同じ志を持っていたことを現している。 「あの勝が、ここで起居していたのか」。 現代に生きている私は、勝も龍馬も活字でしか存在を認識することはないが、 実際に私のこの足の下の土の上で、食べたり歩いたり本を読んだり泣いたり笑ったり。 そんな細々とした日々の暮らしをここで営んでいたのだ。俄然 その存在の現実味が湧いてきた。 今、ここは老人ホーム。時の流れを、ひしひしと感じられてならない。 ※蛇足 写真を撮ろうとカメラを構えたが、如何せん 見通しの悪い三叉路のため、 慌ててシャッターを押さざるを得ず、結果がこの写真。 こちら側の人物が写り込んで幽霊写真みたい・・・ |
19/01/02 | 赤坂離宮・赤坂本店 | |
赤坂5-3-1 赤坂Bizタワー 八福神をお参りし、本日のミッション完了。そうとなれば、お腹の虫が鳴きだした。 さて、どこへ入ろうか。と言っても、多くの店は正月休みでクローズ中。 我等の選択肢は、決して多くはない。まずは、目の前の「赤坂Bizタワー」へ。 2階に赤坂離宮が!しかし、予約なしで、大丈夫か・・・。 昼時間を若干はずれていたせいか、運よく入店できた。 ここは、中国・福建料理だそうな。 コースでオーダーしたら、1品ごとに3人分を大皿に盛り、テーブルへ持ってきて料理名を述べ、 一渡り見せて再び 厨房へ戻っていく。 しばらくして3人分に小皿に盛り分けた それが 再登場した。 たしかに、一品ごとの一人分はほんの少量。 なので、総量を見せることでゴージャス感を目で納得させるのかも。 中国の正月餅は、日本の餅とは似ても似つかぬモノ。 何かに例えるなら、和菓子のスアマに似たり。 にしても、昨年の日本橋コースに比べると参拝客がとても少ない。 新年早々、各国大使館やら高級MNやら都内屈指の高級住宅街の散策は、目の保養。 |
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吉祥コース@5000円 | ||
★テーブルセッティング | ||
★飲み物(オーダー) | 生ビール 紹興酒 |
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★焼き物入り前菜盛り合わせ | ||
★本日の蒸し点心二種 | ||
★蟹の内子入りふかひれスープ | ||
★豚挽き肉と蓮根のはさみ揚げ | ||
★天然海老の二色ソース炒め | ||
★福建式あんかけチャーハン | ||
★本日のデザート(3人3種で) | ナタデココのヨーグルト マンゴーのジュレ プリン |
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★中国の正月餅 |
完 |
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山王日枝神社 | / |
小網神社 | 福禄寿・弁財天 |
茶ノ木神社 | 布袋尊 |
水天宮 | 弁財天 |
京菓子 彦九郎 | 甘酒 |
弁慶像 | / |
松島神社(大島神社) | 大黒神 |
末廣神社 | 毘沙門天 |
笠間稲荷神社 | 寿老神 |
椙森神社 | 恵比寿神 |
寶田恵比寿神社 | 恵比寿神 |
日本橋 なだ万 | 正月膳 |
東京駅 | / |
18/01/02 | 山王日枝神社(七福神・番外) |
「うちで一緒にお正月をしよう」と言ったら、「そこ、遠いからな。じゃあ都心で飯でも食おう」と息子。 かくして、東京駅で待ち合わせ七福神・日本橋コースを巡り、どこかで食事をしようとなった。 まずは七福神のひとつ・小網神社へ向かう途中で、別の神社 発見。 その名も山王日枝神社。またの名を「日本橋 茅場町の山王さん」。 1590年に、徳川家康が江戸城に入城。 日枝大神を崇拝していたため、御旅所の「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿を船で移動させたのが、 そも始まりとのこと。 七福神には入っていないせいか、境内はパラパラ程度の参拝客。 のどかな正月気分を醸し出し、どこかほっとする。 参拝を済ませて、ふと目をやれば賽銭箱の左脇に酒樽が鎮座している。 さらに見れば、横に十数の杯が重ねて添えられていた。 これは、セルフの「正月振る舞い酒」に違いない。 と、呑み助の息子の顔を窺うと、照れくさそうに首を横に。 縁起モノなのに・・・と、これまた呑み助の私。 |
18/01/02 | 小網神社(福禄寿・弁財天) |
右が神楽殿 |
東京七福神の中でも一番人気なのが、この日本橋コース。 毎年1月1日から7日まで「はとバス」が運行される程の人気らしい。 5月の例大祭や11月のどぶろく祭が有名。 最初に訪れた小網神社は、財運向上・強運厄除のパワースポット。 ちなみに、映画「麒麟の翼」にも登場したのだと。 今を遡ること1000年、武蔵国豊島郡入江あたりに万福庵という観世音と弁財天を安置する庵があったとさ。 500年余り前、庵の周囲に疫病が蔓延したが、網師の翁のお陰で悪疫が鎮まった、と。 これを聞いた領主・太田道灌が土地を寄付し「小網山稲荷院福寿寺」と名づけ、 これにちなみ周辺が小網町と呼ばれる様になったそうな。 神社は、オフィス街の裏手、両隣の建物に挟まれて窮屈そうに建っていた。 参拝客の長い行列も、神社の敷地の狭さゆえ致し方ないが、 「道灌さん、もそっと土地を広めに寄付してくれれば良かったのに」と、思わず呟いてしまった。 社殿の彫刻やら、まゆみくじ など興味は尽きないが、 なにぶんにも後の予定が押しているので、遥拝することに決定。神様、すんません。 |
18/01/02 | 茶ノ木神社(布袋尊) |
水天宮前駅近くの高層マンションの隣に、ぽつねんと建つ。 徳川時代、この地には下総佐倉十八万石の大老・堀田家の中屋敷があり、 その守護神として祀られたのが、この神社。 周囲にぐるりと見事な茶の木が植えられていたため、茶ノ木神社と呼ばれたとか。 近辺で長く火災が起こらなかったため、今もなお、防災・生産の神様として信仰を集めているそうな。 時は流れ、かつて この地に三千坪にも及ぶ堀田家の屋敷があったことの証左は、唯 この神社のみとなった。 社務所もない無人の小さな神社だが、高層マンションの足元で懸命に足を踏ん張り、堀田家を護り続けているのかも。 |
18/01/02 | 水天宮(弁財天) |
細い小路を抜けると、交差点前に屯う集団が視界に飛び込んで来た。 信号の先にある水天宮は、行列でぐるりと囲みこまれている。 水天宮は安産・水難・水商売の神様で、福岡久留米市の久留米水天宮の分社。 江戸時代、庶民に大人気だったが、藩屋敷内にあるため庶民の御参りが許されず、 塀越しに賽銭を投げ込む人が絶えないため、毎月5の日に限り、屋敷を開放。 お賽銭は年間2000両(当時のレートで、1両は約13万円)にも及び、久留米・有馬藩の財政難を大いに助けたと言う。 えぇと、2000×13万円は・・・ 小網神社と茶ノ木神社が、いづれも質実だっただけに、黄金色の水天宮の艶やかさに目は釘付け。 |
18/01/02 | 京菓子 彦九郎 |
ここらで、ちょいと寄り道。一旦、七福神コースを外れて、甘酒横丁へ。 甘酒横丁に来たからには、やはり甘酒は外せない。 と目に留まったのが、この店。 天正4年(1576年)京都にて創業し、 新製品「虎家喜(とらやき)を引っさげて江戸進出した和菓子屋「玉栄堂 彦九郎」から暖簾わけした店である。 |
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甘酒 | |
@150円 |
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店先の縁台に腰掛け、甘酒を啜る。 米麹100%のほんのりとした甘さが、喉越し爽やか。 なんでも、甘酒は、週末のみの販売だとか。 カメラを向けると、「うわ、困った。どうしよう」と照れ笑いする2人の店員さん。 「いえいえ、ご安心下さい。別嬪さんは、別嬪さんなりに写ります」と私。 |
18/01/02 | 弁慶像 |
甘酒横丁の終わりで、家人が「ちょっと、トイレ」と。 ここは、かつて神田川から清洲橋下流で隅田川と合流する人工水路だったと言う。 しかし、物資を運ぶ舟の往来で賑わった浜町川は、 戦後 埋め立てられ首都高速建設などのため全てが埋め立てられた。 今は、公園か?空き地か?いづれにせよ、公衆トイレと弁慶像があるのみ。 像の傍の説明書きによると、江戸時代、歌舞伎劇場のうち、中村座と市村座が人形町にあった。 その縁から歌舞伎発祥の地と言うことで、 歌舞伎の代表作「勧進帳」の象徴人物・弁慶の像がここに建てられたそうだ。 |
18/01/02 | 松島神社(大鳥神社) (大黒神) |
日本橋七福神も4社目は、なんと、ビルの1階に嵌め込まれていた。 創建時、あたりは入江で松が植わっていたので「松島稲荷」と呼ばれたそうな。 江戸時代には歓楽街となり、呉服商、芸妓、人形細工師、歌舞伎役者などなど、 庶民の参拝で大賑わいだったとか。 松島神社は、神様がごっちゃりいるのでも有名。 稲荷大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、日前大神(天照大神)、大国主神(だいこくさま)他多数。 人気は、「良夢札」というお札。 願い事を書いた札を枕の下に入れて寝ると良い夢が見られ、正夢になるという。 長蛇の列を前に、戦意喪失。今日の処は断念。 天日鷲神(大鳥大神)が祀られているために、11月には酉の市が開催される。 |
18/01/02 | 末廣神社(毘沙門天) |
末廣神社は、かつて、この地にあった吉原の守り神と言われている。 1675年、社殿修復の時に由緒正しき末廣扇が発見されたため、末廣神社と名付けられた。 両隣の建物に挟まれ、狭い敷地に身を縮め窮屈そうに建つ。 社殿前は、人波の隙間から神社の建物を垣間見るのも骨が折れる有様。 この神社の神様は、宇賀之美多摩命、武甕槌命(毘沙門天=多聞天)。 中でも毘沙門天は、商運向上、疫病鎮め、厄除、財運向上、福徳繁栄など多様なご利益を持つ。 日本では、四天王の中の多聞天で、単独の場合には毘沙門天と呼ばれるそうな。 さて、毘沙門天で頭に浮かぶのが、上杉謙信だ。 「吾こそは毘沙門天の生まれ変わりなり」と公言して憚らなかった戦国武将。 当時 毘沙門天は北方の闘神として厚い信仰を集めたが、時が遷るにつれ、 いつしか人々から期待されるご利益が増し、今では上記のマルチぶり。 いやはや、神様もゆるくない。(容易でない、という北海道弁) |
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獅子舞 | |
神社前の道路では、獅子舞が舞っていた。新春気分に浸り、つい頬が緩む。 |
18/01/02 | 笠間稲荷神社(寿老神) |
五代将軍・徳川綱吉の御側御用人・牧野成貞が綱吉から下屋敷として拝領したのが、この地。 かつては、敷地2万余坪にあまる広大な敷地に、大きな屋敷と優雅な庭園、 そして築山には日本三大稲荷・茨城県の笠間稲荷神社からの分霊を祀ったのだと。 本社の菊まつりには、ここでも菊が飾られるそうな。 さて、稲荷神社と言えばお稲荷さん。 境内には、狐様たちが勢ぞろいして参拝者を待ち構える。道理で、赤い社はその所以だったのか。 こちらの神様は、宇迦之御魂神・寿老神。 寿老神は、長寿・幸運の神様。一言で言えば「福徳長寿」と言うことか。 |
18/01/02 | 椙森神社(恵比寿神) |
なんと1000年前の創建。田原氏による「平将門」討伐祈願の記録も残る。 右手に釣竿、左手に鯛を持つ恵比寿神は、当初は豊漁の神様。 のちには商売繁盛の神様へと変化し「えびす顔」の語源とも言われる。 また、江戸商人発祥の地としても繁栄をみ、 江戸三富(神田・柳森神社、新橋・烏森神社)のひとつにも数えられ、富籤の興行が盛んであった。 富籤とは、今で言う宝くじ。 一枚の籤に託した江戸庶民の夢。現代も、心ひそかに同じ夢を追う人々が社を埋める。 こちらの神様は、 倉稲魂大神、素盞嗚大神、大市姫大神、大己貴大神、四大神。 |
18/01/02 | 寶田恵比寿神社(恵比寿神) |
七福神、とはいえ日本橋コースは七ではなく八社。 なんで?と思ったら、ここの神様が恵比寿神で、ひとつ前の椙森神社とかぶってる。 元々は皇居前にあった宝田村の鎮守様とのこと。 祭壇中央の恵比寿神が運慶作と聞けば、素人の私でも胸が躍る。 伝馬役を勤めた馬込勘解由が徳川家康から拝受したそうな。 ちなみに、勘解由の娘・お雪は徳川家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)夫人。 教科書に載っていた紙の上だけの人物が、いきなり血肉を持ち目の前に躍り出た感じ。 これだから歴史は面白く、古き町・日本橋は楽しい。 ここは、べったら市でも知られており、社の前で、べったら漬けの試食販売が行われていた。 べったら市は、「べったり運がつく」と元禄の頃から人気だったらしい。 数片を口の中に放り込む。まったりと舌にまとわりつくコクと甘さ。美味い。 |
18/01/02 | 日本橋 なだ万 | |
せっかく日本橋へ出てきたのだもの、昼はやっぱり三越10Fの「なだ万」。 と、思うのはこちらの勝手。 予約なしの飛び込みで正月2日に日本橋で会食は、ちょっと無茶なような。 恐る恐る尋ねれば、なんとか1時間待ちで希望が叶うことになった。 出てくる料理それぞれが上品な出汁に裏打ちされ、思わず唸る。 「やっぱり、正月は日本食だね」と、にっこらかっこらの私。 しかし、「煮物を入れた長く丸い持ち手の黒い籠、日頃はどんな風に収納しているのだろう。 蓋もひらひらした形だし、焼物の器も重ねることは無理だろう」 と、ついつい主婦の疑問が頭をもたげる。 一般家庭は、凡そ少ない収納場所に収まる合理的な食器を使用しがち。 それだけに、空間余裕あふれる食器は目に新鮮で、ハレの高揚感を一層かきたてる。 料理は勿論美味しいが、器も又ご馳走。浮き立つ思いで、箸がすすむ。 |
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正月膳@6780円 | ||
★先付 | 胡麻豆腐・蟹とび子・旨だしゼリー・山葵 子持ち昆布・白菜浸し・揚げするめ 鉄皮サラダ(柚子味噌ドレッシング) |
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★吸物 | 海老しんじょ (椎茸・金時人参・氷面大根・つる菜・柚子) |
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★造り | 本日の刺身盛り合わせあしらい |
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★煮物 | 百合根万頭 (椎茸餡・浅葱・生姜・枸杞の実) |
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★焼物 & ★御飯 & ★香の物 & ★止め椀 |
鰆西京漬・蕗味噌焼き・焼きひろうす 豚角田楽・菊花蕪 小梅蜜煮 鶏牛蒡五目炊込み御飯 香の物盛り合せ 赤だし椀 |
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★デザート | グラマラッカ |
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★飲物(別オーダー) | ビール |
18/01/02 | 東京駅 |
東京駅・丸の内赤レンガ駅舎前、 オープンしたての駅前広場やそこから皇居へ続く行幸通りがライトアップされ、 幻想的な雰囲気が漂っていた。 親子連れ、恋人どうし、友達グループが、 歓声をあげながらカメラのシャッターを押す。 東京駅広場から一直線にのびる皇居への道は、まるで 午前0時にシンデレラを乗せた南瓜の馬車が駆けて行くメルヘンロード、そのもの。 |
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原敬首相 暗殺現場 | |
床の小さいマークが現場 マークをズーム |
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1921年、内閣総理大臣・原 敬は京都での政友会大会へ赴くため丸の内南口の改札へ向かい、 現在の切符売場近くで右翼青年により刺殺された。即死。 写真に写り込んでいる切符を買っている男性は、 数歩離れたその場所でかつての総理が殺害されたことを知っているかな? |
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浜口雄幸首相 暗殺現場 | |
階段下◆の中の丸いマーク |
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1930年、神戸での陸軍演習視察のためホームを移動中に、 構内中央通りから新幹線の改札への階段手前で、右翼活動家に銃にて襲撃された。 辛うじて一命はとりとめたものの、1年を待たずこの世を去る。 浜口は、緊縮財政や金解禁で知られ「ライオン宰相」と呼ばれていた。 城山三郎の著書「男子の本懐」は、浜口雄幸と井上準之助を描いた作品。 浜口は、この事件に遭遇した時「男子の本懐である」と言ったそうな。 誠実で実直で、しかし頑固な浜口らしい。 いづれも、近くに事件を伝える黒いプレートが設置されているが、振り返る者はなく、 床のマークに気づき立ち止まる者もない。人々は、忙しそうに足早に通り過ぎて行く。 戦前、現実にここで起きた事件なのだが、雑踏の中に身を置き人の流れに揉まれていると時代は変わったと改めて思う。 |
完 |
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深川不動堂 | / |
富岡八幡宮 | 恵比寿神 |
冬木弁天堂 | 弁財天 |
法乗院 えんま堂 | / |
心行寺 | 福禄寿 |
滝沢馬琴 生誕の地 | / |
円珠院 | 大黒天 |
間宮林蔵の墓 | / |
龍光院 | 毘沙門天 |
某そば店 | / |
大鵬の髷 | / |
大相撲・錣山部屋(元関脇・寺尾) | / |
深川稲荷神社 | 布袋尊 |
深川神明宮 | 寿老神 |
16/01/05 | 深川不動堂 |
関東へ来て初めての初詣。 見知らぬ街の散策も兼ねて、いざ出発。 まずは、門前仲町→清澄→森下 の深川コースへと飛び出した。 巡拝の道々に「橙色の幟」が立てられているので、辿って行けばOK。 「着いた!」 けど、ありゃりゃ、この人の多さ! 正月3が日を過ぎたので、今日なら空いているだろうとの目論みは見事に外れ、どこも行列。 |
16/01/05 | 富岡八幡宮(恵比寿神) |
深川不動尊からの流れ客と、ここを目的とした参拝客とが合流して、人の数がますます増えてきた。 巷では今日が仕事始め。背広姿の軍団が、自社の繁栄祈願のために訪れる。いわば、仕事の一環。 とは言え、楽しそうだわ。 |
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白羽の矢 | |
「白羽の矢」の意味は、抜擢されること、選ばれること。 良い意味と悪い意味があるそうだ。悪いことには抜擢されたくないが、矢は飛ぶように売れていく。 |
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恵比須宮 | |
小さな宮が3つ並ぶ、その真ん中が「恵比須宮」。 後ろに並ぶ高齢の婦人が言った。「お賽銭、ちょっと少なかったかしらん・・・」。 大丈夫、こちらの思いはきっと察してくれるはず。だって、相手は神様ですもん。 |
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横綱力士碑 | |
境内には、有名な「横綱力士碑」があった。 碑の裏には、歴代・横綱の名が刻まれている。ふと見ると、千代の富士の名がテカテカと黒光りしていた。 どんだけ多くのファンが撫で回したのだろうか。 |
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二代目神輿 | |
紀伊国屋文左衛門が奉納した初代が消失したため、 佐川急便の社主が奉じた二代目だとか。 ダイヤやエメラルドなどの宝石が随所に散らばめられた豪華なもの。 |
16/01/05 | 冬木弁天堂(弁財天) |
大通りに面し、階段を上がった所にある真言宗の小さな社。 多くの人たちが二礼ニ拍の神式で参拝をすませ、涼しい顔で立ち去った。 何箇所も梯子をすると、ここが寺なのか神社なのか迷う。 にしても、例えば深川七福神は4つの寺と3つの神社に神様が祀られている。 神も仏も混ぜこぜで七福神。懐が深いのか。少々不思議。 |
16/01/05 | 法乗院 えんま堂 |
ここでは、閻魔さまがお話をして下さるらしい。が、残念ながら捉まらなかった。 閻魔さまとはご縁がなかったが、興味深いものを発見。 法乗院・本堂の壁紙。雲海に乗り下界を見下ろす閻魔さま。 眼下には三途の川が流れる。今まさに渡らんとする人々。 向こう岸には、行き倒れた人々が川面に浮かぶ。 右の壁から順に左へと、ひとつの物語が目の前に展開した。 見るものを捉えて離さない圧倒的な勢いに、思わず身を乗り出した。 解説を添えていただけたら、もっと その絵巻物を理解し尽せただろうに。 ちら見で帰るのは、あまりに惜しい。 |
16/01/05 | 心行寺(福禄寿) |
鎌倉時代に開宗した浄土宗の寺。 |
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福禄寿 | |
福禄寿&住まいの六角堂 |
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福禄寿は、福(幸福)と禄(財)と寿(長寿)の三つの福得を授ける神。 背が低く、頭が非常に長く、白髪で童顔。年齢数千年。 童顔と言うが、どうみても若くは見えない。まごうことなく老人。 |
16/01/05 | 滝沢馬琴 生誕の地 |
滝沢馬琴は、「南総里見八犬伝」の作者として、お馴染み。 筆1本で食べていけた日本最初のプロ作家だそうな。 息子が子供だった頃、「もう、読まないだろう」と、この本を売っぱらった。 さて、それからが大変。息子に大泣きされ、慌てて売値の10倍で買い戻した。 恨みの1冊。 |
16/01/05 | 円珠院(大黒天) |
日蓮宗の寺院。 大黒天は招福の神。 笑顔の姿となって、台所・財宝・糧食をつかさどる様になったとか。 |
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大黒天 |
16/01/05 | 間宮林蔵の墓 |
間宮林蔵は、伊能忠敬に測量を学び、幕府の命で蝦夷など北地探検と測量をした事で有名。 「間宮海峡」の発見で、一躍その名を馳せた。 にしても、この地で亡くなったのか。誰が墓守をしているのか、新鮮な花が凛と手向けられていた。 |
16/01/05 | 龍光院(毘沙門天) |
浄土宗の寺。 安置されている毘沙門天は、勇気や決断力を与え財福を与えるという有難い福神。 近所に住まうらしき人が、さりげなく御参りしていたのが印象的だ。 |
16/01/05 | 某そば店 |
途中で「長谷川平蔵の一本うどん」と書かれた貼紙の蕎麦屋に出くわした。 ちょうど 小腹も空いた時分、吸い寄せられる様に店内へ。 建物はかなりの年季を潜った様子で、創業何百年だかの老舗とか。 一本うどんって、どんなだろう。とぐろを巻いたうどんが一本出てくるのだろうか? 期待は、どんどんと膨らむ。 目の前に現れたうどんは、中を繰り抜いた半円型のプリン状のものだった。 しかも、上には黒蜜がかかっている。 思わず絶句。これのどこが、うどん、なのだ? 別皿でうどん汁と山生姜と岩塩が寄り添っているのだが、蜜が邪魔で他の味を楽しむ事すら出来ない。 「デザートを頼んだ訳ではないのに・・・。@1400円。 後でネットで調べたら、一本うどんは2013年から始め、当時は@800円。 たった2年で600円も値上がりしていた。 一足さきに注文したうら若き女性は、一口食べて顔をしかめ箸を置いた。 見事に客の期待を裏切る一品なり。 1本うどんが、後1人前しか出来ないと言われ、家人は大盛り蕎麦を注文した。 「おぉ、盛りがいい」と喜んだのも束の間。 箸で麺を掬い上げると、ほぼ全部が5~10cm位の長さ。 素人の手打ちなら、いざ知らず、プロにそれはなかろう。 店内を見回せば、他の客の蕎麦は家人のとは違いちゃんと箸で持ち上がる蕎麦の長さ。 どうやら、これは蕎麦の端切れらしい。 「大盛りは量をサービスするのだから、一見さんは蕎麦の端っこで充分」との店の腹の中が透けて見える。 @900円。怒り心頭。もう2度と行かないと思う。 |
16/01/05 | 大鵬の髷 |
ここは、東京江戸博物館。ふらりと入ったら、目が奪われてしまった。 これが、あの大横綱・大鵬の頭にのっかっていたのか・・・特にファンだった訳でもない私でも、感慨無量。 |
16/01/05 | 大相撲・錣山部屋(元関脇・寺尾) |
男前・寺尾の相撲部屋がこちら。ひょっとして、玄関が開いて寺尾がひょいと出てくる。 なんて偶然は・・・ないな。じっと、戸を眺める。 |
16/01/05 | 深川稲荷神社(布袋尊) |
深川稲荷神社に祀られている布袋尊は、七福神の中で唯一中国(唐の時代)に実在した禅僧。 「泣いて暮らすも一生。笑って暮らすも一生。同じ暮らすなら笑って暮らせ」と言ったとか、言わなかったとか。 この深川稲荷神社は、無住社で町会により管理運営されている珍しい社。 そんな町会の結束の強さゆえか、暖かいお茶の接待がされていた。有難い。 |
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お茶の接待 |
16/01/05 | 深川神明宮(寿老神) |
さて、〆は深川発祥の神社。寿老神は、延命長寿の神様。 長寿延命・富貴長寿・・・お願いします |
完 |
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