10/10/20~10/10/26 札幌⇔京都(大人2名) 日程 京都6泊 経費 大人2名 |
交通費 | 飛行機チケット新千歳⇔関西空港 | (@13,000円(片道)×2)2-@=52,000円 |
宿泊 | ロイヤル河原町五条 | 6泊7日(2名)=26,000円 |
拝観料&入場料 | 1,000円 | |
食事&食材費 | 22,796円 | |
交通費 | 12,040円 | |
雑費 | 5,940円 | |
総計 | 119,776円 |
1日目 | ●新千歳空港・国際線ロビー | 北海道・千歳市 |
2日目 | ●六角堂 | 京都市 |
●東本願寺 | 同上 | |
3日目 | ●時代祭 | 同上 |
●鞍馬の火祭 | 同上 | |
4日目 | ●平安神宮 | 同上 |
●琵琶湖疏水記念館 | 同上 | |
●インクラインを歩いてみた | 同上 | |
●南禅寺 | 同上 | |
●水路閣 | 同上 | |
5日目 | ●なら格子の家 | 奈良市 |
●元興寺(芝新屋町) | 同上 | |
●猿沢池 | 同上 | |
●春日大社 | 同上 | |
●知恩院 | 京都市 | |
6日目 | 帰宅 | 札幌市 |
泊まったところ | ●ロイヤル河原町五条 | |
食べたところ | ●瓢樹 | 花遊膳 |
●田毎 | そば定食 | |
●朝日 | 串かつ | |
閑話 | ●時代祭の裏側 | |
●小蝿 | ||
●どんつき | ||
●餅飯殿センター街 |
閑話 | |
時代祭の裏側 | |
行列が始まる前の会場で人気を1人(1匹)占めしていたのが、 刀を背負った時代祭コーデのワンちゃん。 ほんとに、可愛い。 カメラを構えた観光客達に、少々困惑気味。 シャイな人柄、いや犬柄とお見受けした。 |
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行列に従って、時々道の真ん中を歩く作業着の2人。 1人は塵取りと箒を手にし、もう1人は段ボール箱を積んだリヤカーを押す。 これ、行列に参加している馬の落し物を拾っているのだ。尾籠なお話で、恐縮。 |
閑話 |
小蝿 |
世の中には、ビックリする事があるものダ。 時代祭をみて、その足で鞍馬へ直行し、未だ昼も食べていない。 どこかで、昼夜兼用の食事を済ませよう。 乗継駅の出町柳に到着。電車から吐き出された人波が三々五々散っていき、ほっと吐息がもれた時、家人が言った。 「そう言えば、地図によれば近くに●●チェーンがあったと思うけど」 昨年の祇園祭りの折、洛中の●●チェーンの前には客が列をなし、後日、醍醐店へ入店したら、安くてボリューム満点だった。 駅裏の小路に、その店はあった。 どう見ても「ただの赤ちょうちん」。 広くて明るいファミレス風の醍醐店とは、雲泥の差。 チェーン店だから、概ねのレベルは保証されているはずと思いなおし、暖簾をくぐった。 店内は調理場に沿ったカウンターが一枚と、壁に沿ったカウンターが一枚据えられている。 カウンターの向こうでは、50代位の店主が中華鍋をあおりながら常連らしき客と話しこんでいた。 その周りでは若い男性が2人、皿を洗ったり米を研いだり。 それをチラ見する店主は、些細な事で彼らを怒鳴り散らす。 壁側のカウンター席に腰を下ろそうとしたその時、賄いのお兄ちゃんが尖った声で言った。 「そっちに座るんですか」こっちは駄目なのか。何でそんなに怒ってるんだ。 別にどこに座っても構わないんだけど。 ふと、目の前のカウンターに視線を落とすと、「無料です。ご自由にどうぞ」と書かれた沢庵の丼の中が、ざわざわと騒がしい。 丼の中をのぞいてみると、真っ黄色の沢庵の上に無数の胡麻が降り掛けられていた。 否、胡麻の正体は黒い小蝿だ。 それが思い思いに蠢いて、ラップの下から飛び出してくる。 そこでやっと合点がいった。 店員のお兄ちゃんは、忙しさで虫のわいた沢庵丼をさげる時間がなかったのだろう。 口やかましい店主に知られると、叱られるのは必定。 で、件の尖った声となったのだろう。それにしても、「タダです、自由に」 と言われても、小蝿いりの沢庵はいただけない。 今時、こんな不衛生な店が潰れもせず営業出来ているのが、不思議でならない。 |
10/10/23 | 平安神宮 |
塔の一角 神服?の繕いをするご婦人たち |
今日は、家人とは別行動の一日。 平安神宮は、1895年(明治28年)平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、 平安京の大内裏の一部を5/8に縮小し、ここ岡崎に復元された。 その後、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社となる。 昨日観た時代祭も平安遷都記念行事として始まり、その行列は御所を始点とし平安神宮を終点とする。 境内に足を踏み入れると、まず広さにびっくり。 次に、建物の赤にびっくり。 大極殿・向って左側の塔・廊下で、年配のご婦人方が山積みの白い衣服を前に何やら手を動かしていた。 神服の修理繕いの奉仕活動か。平安神宮の大祭・建造物・神苑(庭園)の保存のために、市民による平安講社が組織されたという。 当時の行政区分に従って、上京区・下京区・愛宕郡・葛野郡の4地区を6社に分け、社は学区ごとの組から構成されていたそうな。 その後、市の拡大で平安講社は拡張するも、戦後1度解散し、再出発をとげ今にいたる。 現在も時代祭の運営は、平安講社の手による。 京都市民の尽力によって、京の歴史が守り残されている。 京の人々の愛郷心と京人としてのプライド、その組織力。凄い。 |
閑話 |
どんつき |
平安神宮周辺。今日は、道のあちこちに制服警官の警備が。 まずは、駅の位置を確認せねば。辻に立っていた警備のイケメン警察官をつかまえて、聞いたところ 「あぁ、それなら このドンツキを右へ行って~。」 ※どんつき:どんと突き当たる場所。京言葉。 偶然にも、地元警察官の口からポロッと京言葉がこぼれた。 |
10/10/23 | 琵琶湖疏水記念館 |
琵琶湖疏水記念館 |
「どんつき」を右手に折れ、道なりに歩く。運が良ければ、南禅寺にたどり着く筈。と、 左に大きな建物が現れた。琵琶湖疏水記念館。 入館無料。疏水とは、舟運・発電・上水・灌漑用水を目的に、琵琶湖から京都までひかれた水路のことである。 明治期、京都府知事・北垣国道が、帝を東京へ奪われて衰微する京都に、新しい産業としてのエネルギー開発ブランを計画した。 それは、琵琶湖から京都へ水路を引くという、遠大なものであった。 たまたま、卒論のために水路の実測をしていた学生・田辺朔朗の存在が工部大学校長・大鳥圭介から知事へ伝えられた。 田辺は卒業直後に京都府御用掛を拝命、技師として我国初の大疏水工事を主導していくこととなる。 しかし、外国技師の手を借りずしての手探りの工事は、難航を極める。 資材の調達、人夫の犠牲など山積する問題が、大学を出たての若き技師の双肩にかかった。 最大の難問は、蹴上から九条山までの582メートル。 その間の36メートルの高低差を克服しない限り、水運は成立しない。 田辺がひねり出した知恵が、船をそのまま台車に乗せてレールの上を移動する水陸両用船・インクライン。 これにより、急こう配を見事クリア。 このプロジェクト完成までの記録や苦難の歴史が、ここ琵琶湖疏水記念館に細やかに展示されている。 技師・田辺は卒論の水路実測中に、謝って右手に大怪我を負ってしまう。 しかし、卒業が遅れることを懸念し左手で論文と製図を書きあげた。 実物の卒論を見て、飛びあがるほど驚いた。 流れる様な英文字と正確な線で描かれた製図。 これが、左手での作業によるものとは誰も思わない。 その挫けない強い意志こそが、この大事業を成し遂げ得た理由に他ならない。 水路の水は世界二番目の水力発電建設となり、それにより日本初の市電が京都の町を走ることとなった。 さらにインクライン(傾斜鉄道)による琵琶湖から京都までの舟運も開通。 疏水が京都にもたらしたものの大きさを、改めて思う。 時代は遷り、今は電車も廃止されインクラインは錆びたレールを残すのみとなった。 しかし、疏水は今日も京都市民の上水として使われている。 記念館から疏水を眺めた。満々と湛える水は、過ぎし日をすべて飲みこんで沈黙する。 この大事業がなければ、現在の京都は廃れた片田舎だっただろう。 若手の知事と大学卒業したてのフレッシュな技術者。 インクラインは、この2人の出会いと情熱が生み出した奇跡であり、時代が求めた必然という名の運命でもある。 |
インクラインを歩いてみた | |
インクライン |
疏水記念館前のインクライン・レールを歩いてみた。 このまま水路に沿って行けば、琵琶湖に辿りつく。 カメラ片手の観光客、子供連れの家族。インクラインを反対から歩いて来る人にすれ違う。 1人1人がそれぞれに、明治の夢の中を歩いていく。 |
10/10/23 | 南禅寺 | |
入り口 |
三門 |
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道なりに歩くと、南禅寺の前に出た。 南禅寺は臨済宗南禅寺派大本山の寺。 開基は亀山法王。 京都五山の上に位置し、日本の禅寺の中で最高の格式を持つ。境内無料。 さて、南禅寺と言えば、三門。別名「天下竜門」とも呼ばれるこの門は、日本三大門の一つである。 大阪夏の陣の後、藤堂高虎が戦死した部下らの冥福を祈るために寄進したという。 今も、藤堂家歴代の位牌や大阪夏の陣の戦死者の位牌が安置されている。 また、歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな」と唸るのが、ここ南禅寺三門。 門とは言え、五間三戸(正面の柱間が五間で、そのうち中央の三間が出入口)の二重門(2階建の門)というデラックスな造り。 2階からの眺めは如何ばかりか。 ただ、三門が建てられたのは五右衛門の死後30年を過ぎてから。 |
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水路閣 | ||
南禅寺には、テレビドラマの撮影場所によく使われる超人気スポットがある。 境内を流れる琵琶湖疏水・水路閣だ。 そもそも格式高い寺の敷地を疏水が悠々と流れている事自体、不思議。 案の定、建設当時「古都の景観を破壊する」との反対運動が起こったのだと。 今では京都を代表する風景の一つである。 木々の合間に突如出現する水路閣。 長年の風雪をたっぷりと受け止めてきた煉瓦が醸し出す空間は、まるで外国へワープしたようだ。 モダンにして古色。西洋風建築なのに、名刹の雰囲気にしっくりと重なる。 疏水設計者・田辺朔朗は、100年後のこの景色をも想定していたのか。 |
閑話 | |
餅飯殿(もちいどの)センター街 | |
奈良の駅舎を出て、傍の餅飯殿センター街を行く。名の通り 餅屋が多い。 その時 中年男性に「どこかお探しですか」と尋ねられた。 当方 行き先すらも決まっていない。 男性は少しの間 思案して、言った。 「奈良はお寺もいいし、町並みを見ながら散策するのもいいかと思いますよ。 このあたりだと、春日大社が、ほらあそこに」と身を捻り、その方角を指差した。 |
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中谷堂 | |
つきたてよもぎ餅@130円 |
男性が、後ろの店にふと目をとめ「あそこのお餅、つきたてで美味しいんですよ」と教えてくれた。 甘いものに目が無い家人は、店先でついている餅に釘付け。 中谷堂「つきたてよもぎ餅」@130円。まだ温もりが残る出来立ての餅は、さすがに美味。 餅を頬張りながら、町散策へと出発。件の男性が追いかけてきて、念押しをした。 「山が見える方角が、東ですからね」 |
10/10/24 | なら格子の家 |
みせの間 (正面が道路側の格子) |
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「なら格子の家」では、「ならまち」伝統の古民家が忠実に再現されていた。入場無料。 当時、奈良の町家は、間口の幅で課税額が決められたために、横幅は狭く奥行きが長い形状の家を作った。 玄関わきの「みせの間」に立つと、中の間、奥の間、中庭、離れ、その先の蔵までが一線となり一目で見渡す事が出来る。 心地よい風が、吹き抜けていく。 みせの間の格子は、外から中は見えにくいが、逆に家の中からは外の様子が手に取る様に見える。不思議。 玄関奥の台所には竈が並び、2階まで吹き抜けになっていた。天窓からは柔らかな光が刺し込む。なんてお洒落な。 格子、箱階段、吹き抜けの明かり採りなど、随所に生活の知恵が散りばめられ、思わず唸ってしまった。 扇風機やクーラーが無くとも間取りの工夫によって涼しい風が通り抜け、 細かな作業をする台所は照明が無くても吹き抜けを通して天窓から明かりが射し込む。 昔の人の知恵、その底力を見せつけられた。 |
10/10/24 | 元興寺(芝新屋町) |
元興寺五重塔址 |
ぶらぶらと町歩き。五重塔址に遭遇した。寺の名は、元興寺(がんごうじ)。 ここへ来る間、あちこちの看板や説明書きで、この名を度たび目にした。 不思議に思い、奈良駅周辺の観光地図をひろげてみる。 すると、ここ芝新屋町の元興寺は東大寺の末寺で華厳宗。 北の中院町にもう1つ存在する元興寺が真言律宗。 それぞれに宗派が違う寺だが、実は元々は1つの寺だったそうな。 元興寺の前身は、蘇我馬子が建立した南都七大寺の1つ・法興寺(飛鳥寺)。 奈良時代には東大寺や興福寺と並ぶ大寺院だったが、中世以降に衰退し、 浄土信仰の極楽坊と江戸末期に焼失してしまった五重塔を配する芝新屋町とに分かれ、その隙間は民家で埋められていった。 奈良町は、そのほとんどが元興寺の境内だったという事。 以後、隆盛が戻ることはなく、未だに復興の見通しはない。 残された五重塔址に立つ。 平らな土地の所々に残された石が、五重塔の礎石だろうか。 今はただ、想像するより術がない。 これ程までに勢力をふるった大きな寺が、時の流れの波間で揉まれ2つに割れてしまった。 時間の残酷さを、址は雄弁に物語る。 |
10/10/24 | 猿沢池 | |
猿沢池 |
亀たち |
元興寺を出て商店街を通りぬけた所で、猿沢池に着いた。 元興寺の隆盛時は、ここ猿沢池までが境内だったというから、改めてその勢力の隆盛に驚かされる。 猿沢池は、興福寺の放生池として天平21年につくられた人工池。万物の生命を慈しむという宗教の教えに因って、捕獲された生き物たちをここに放流したのだそうな。 |
猿沢池の七不思議 | ||
「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず、藻は生えず。魚が七分に水三分。」 (猿沢池の水は、決して澄むことがなく、又ひどく濁ることもない。 水が流入する川はなく、それなのに常に一定の水量を保っている。 亀は沢山いるが、蛙もいなく藻も生えない。多くの魚が放流されるが、魚で溢れることもない。) 一体どんな摂理によって保たれているのか、不思議だ。 |
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芥川龍之介「龍」 | ||
芥川龍之介の小説「龍」が、猿沢池に古くから伝わる「雲を呼び、雨を降らせながら龍が天に昇った」 という伝説をもとに書かれたことは、つとに有名である。 「蜂に刺された様に真っ赤な大きな鼻を持つ法師がおったとさ。 彼は、鼻蔵鼻蔵と囃されて悔しい思いをしていたんだと。 ある日のこと、鼻蔵はいつもからかう人達を見返してやりたいと思い、興福寺の前の猿沢池に建札をたてたんだと。 「三月三日この池より竜昇らんずるなり」。 無論、何の根拠もないでたらめな話。 しかし、噂はいつの間にか尾鰭がついて全国へと広まって予想もしない大きな話に膨らんでいったそうな」 人間が思うことで、竜が姿を現すという。 元より、論拠はどこにもない。 思い続ける人間の一途さと、思いを受け止めて折々に姿を見せる竜の律儀さが、妙に愛おしい。 |
10/10/24 | 春日大社 |
石灯籠 |
藤浪之屋 |
直会殿の吊り燈籠 |
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直江兼継が寄進した燈籠 |
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春日大社の起源は、710年 藤原不比等が平城遷都の折に藤原氏の氏神を祀ったためと言われている。 藤原氏が勢力をのばすにつれて社殿の造営が繰り返され、皇族や貴族の春日詣でが盛んになり、 次第に武家や庶民にもひろまり全国に御分社がつくられていった。本殿参拝@500円。 境内のどこを歩いても国宝級の文化財に行きあたる。 闊歩する1000頭以上の鹿たちも神鹿(しんろく)という天然記念物。まさに、宝の宝庫。 圧巻なのは、1000にも及ぶ回廊の吊り燈籠と参道に並ぶ2000の石灯籠。 言葉も忘れて、見惚れてしまった。 2月の節分と8月のお盆には、一斉に万燈籠に灯がともされるのだとか。 それ以外の時期にも特別公開として雰囲気を体験出来るのが、藤波之屋。 ここは北回廊の東角にあり、かつては神職の詰所だった所。 真っ暗な中、揺らめく灯りがかもしだす空間は、まさに幽玄の世界そのもの。 |
10/10/25 | 知恩院 |
三門 |
知恩院は、浄土宗総本山の寺。 開基・法然が没するまでの後半生を過ごした地である。 信徒は徳川将軍家から一般庶民まで、身分を超えて幅広い。 横にいた旅行中とおぼしき夫婦連れの御主人が、 ボランティアガイドさん相手に「法然と親鸞」についての知識を披露し始めた。 「元々は親鸞は法然の弟子だったのに、いつの間にか法然の浄土宗よりも親鸞の浄土真宗の方が隆盛しちゃって、 庇を貸して母屋を取られた様なもんだ」 聞いていたガイドさんは、相槌を打ちつつもどこか苦~い表情。 確かに、事実は仰せの通り。が、ここは法然の浄土宗総本山なのだ。空気が読めないお方。 ハタと思った。 徳川将軍家は代々浄土宗を信仰してきた。 が、徳川家康は浄土真宗の東本願寺に現在の東本願寺が建っている土地を寄進した。 宗派が違うのに、何故だろう。 家康は本願寺に土地を与え、そこに東本願寺を建てさせ、 増大する本願寺を東と西に2分することで勢力を削ごうと企てたのではなかったか。 為政者としては、強大勢力の芽は摘まねばなるまい。さすが「タヌキおやじ」。 |
10/10/25 | 田毎 |
そば定食@1155円 |
「御蕎麦 田毎」。看板をみるだけでも、老舗の臭いがぷんぷんだ。 店内は食事には中途半端な時間だというのに、結構な客の入り。 総じて年齢層が高めなのは時間帯のせいか、はたまた値段が高めなせいか。 我らが注文したのは「そば定食」@1155円。(海老天ぷらそば・白ご飯・箸休め・漬けもの) このメニュー、時間限定で午前10時から午後3時まで。 それ以降は@1365円となる。程なく運ばれてきた天そばの鰹の香りに、思わず頬がゆるむ。 麺は、歯ごたえがあり美味しい。 本日の2人の鼻は、なかなかに利いていた模様。 |
10/10/26 | 朝日 | ||||||||||||
串かつ |
タレは勿論 二度づけ禁止 |
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ここは新世界。となれば、やっぱり「串かつ」。 男前のお兄さんが、店の前で割引券を配布していた。 店内を窺えば、広くて小奇麗。小上がりあり。 開店間際の店内、奥のカウンターで焼酎をひっかけているオジサンが1名。先客ありとは、さすが新世界だ。
このタレが、有名な二度づけ禁止。 ほなら、一回でだっぷりと浸しとかな。 裏表に目いっぱいタレを含ませて頬張ると、口の中でジュワッと広がるこの食感。 揚げたての串かつ、美味しい。 |
完 |
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©2007匁の旅手箱 |