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2010年 京都旅行記

鞍馬の火祭り

10/10/20~10/10/26  札幌⇔京都(大人2名)

日程    京都6泊
経費    大人2名

交通費 飛行機チケット新千歳⇔関西空港 (@13,000円(片道)×2)2-@=52,000円
宿泊 ロイヤル河原町五条 6泊7日(2名)=26,000円
拝観料&入場料 1,000円
食事&食材費 22,796円
交通費 12,040円
雑費 5,940円
総計 119,776円


旅程
1日目 新千歳空港・国際線ロビー 北海道・千歳市
2日目 六角堂 京都市
東本願寺 同上
3日目 時代祭 同上
鞍馬の火祭 同上
4日目 平安神宮 同上
琵琶湖疏水記念館 同上
インクラインを歩いてみた 同上
南禅寺 同上
水路閣 同上
5日目 なら格子の家 奈良市
元興寺(芝新屋町) 同上
猿沢池 同上
春日大社 同上
知恩院 京都市
6日目 帰宅 札幌市 


泊まったところ ロイヤル河原町五条
食べたところ 瓢樹 花遊膳
田毎 そば定食
朝日 串かつ
閑話 ●時代祭の裏側
●小蝿
●どんつき
●餅飯殿センター街


1日目   出発 編   今日の歩数=11,738歩
10/10/20    新千歳空港・国際線ロビー

新千歳空港の国際線ロビーは、2010年3月26日にopenしたばかり。

広い。しかも、人がまばら。 中央には動く歩道が設置され、その両脇を電動車「ヘルプカ―」が走行する。 運転のお姉さんによると、2台を交互に充電して使っているのだそうな。 写真は、ちょうど修学旅行中の女子高生グループ。この後、私と家人が乗った。 周囲を歩く歩行者の危険防止のため走行時には音楽が流れ、 その音にびっくりして振り返った多くの人が珍しさでこちらを凝視。ちょっと、照れる。

乗り心地は、スムーズで快適。
10/10/20 ロイヤル河原町五条

備品(他にコーヒーカップ2客あり)

今回の京のネグラ。

昨年は同じ会社が経営する駅前ウィークリーMNに泊まり、今回は駅から少々離れた河原町の観光至便なMN。 部屋は1LDKの2段ベッド。居間とベッドルームが別部屋になり、広く感じる。

←台所の装備品。ラップや食器洗い洗剤、茶碗洗い用のスポンジまで付いている。 IHの一口コンロは、火力が強い。この小さなお鍋でコメを炊いてみたが、美味しかった。 他に洗濯洗剤やらお部屋掃除のコロコロなど、生活必需品は完備。 しいて言えば、布巾が一枚だけなので、別に台拭きがあれば万全。

体一つで行っても、MYマンション感覚で暮らせる快適さ。
2日目   六角堂&「日本画家の旧屋敷」で食べるランチ 編   今日の歩数=16,835歩
10/10/21 六角堂

へそ石

西暦587年、聖徳太子を開基として創建された「六角堂」。 京都の人達は、「六角さん」と呼ぶ。名前の由来は、真上から見ると六角形の形をした建物であるため。

とは言え、六角堂は今 ビルの谷間に埋もれてひっそりと建ち、それを見降ろす様に池坊の近代ビルが建ちはだかる。 代々、六角堂の仏前への供花を担当してきたのが、池坊だそうな。 かくして、この地が華道発祥の地となり、池坊は発展を遂げ今日に至る。

六角堂の東門を入った所にあるのが「へそ石」。 六角形にみえなくもない大きな石の中央にあいた円い穴を、へそにみたてての命名。 かつては、ここが京都の中心地「へそ」であったという意味である。 火事などの自然災害が多かった京の町では、ある時期、六角堂が洛中の人達の避難所でもあったという。 人々にとって生活と切り離せない、まさにへその様に重要な所だったのだろう。
10/10/21 瓢樹
花遊膳@4620円


三段重&刺身
(縞鯵・モンゴイカ各1切れ)


まぜご飯


松茸の吸い物

ミシュラン1つ星店の中、まぎれもない上位人気店。 店の建物は、明治の日本画家・今尾景年が晩年に贅を尽くして建てた邸宅を料亭に改装したもの。重要文化財。

京懐石は会席料理とは違って、温石と同じく温かい石を懐に抱き空きっ腹を暖めるという意味。 空腹をしのぐ程度の粗末な食べ物という事だ。

お洒落な重箱中の料理は、全て冷め切っていた。 その上、開店早々のどたばたか隣室から従業員の大声の私語が聞こえて来て、まるで楽屋裏で食べている様で。 折角の風雅な気分が、台無し。

個室での食事は嬉しいが、特に目をひく料理はない。 ワンランク上にすれば、又違った感想だったかも。

三段重の中身


一の重
栗の胡桃揚げ・鮎の山椒和え
干し椎茸と木耳の和え物
10/10/21 東本願寺

東本願寺は、正式名称「真宗本廟」という。通称「お東さん」。 門の前には、親鸞聖人法要までのカウントダウン掲示があった。

参拝接待所から建物の中を通り屋根つきの高廊下を渡ると、御影堂に到達する。 途中に視聴覚ホールあり、ギャラリーあり。礼拝施設とは思えない親しみやすさ。 10年程かかった御影堂の修復は、屋根にシートが掛かっていたが概ね終了。 続いて阿弥陀堂の修復工事に入るため、今は阿弥陀堂がシートの中。


実は、我家も門徒。 10余年前に鬼籍に入った家人の父親が、亡くなる数年前に月詣りに訪れた僧侶と喧嘩して、その場で「西」から「東」へ転向した。 なので、ご先祖様は「お西」で、義父の代からは「お東」。倅である家人に言わせれば「ま、どっちでもいい」。
3日目   時代祭 & 鞍馬の火祭 編   今日の歩数=16,835歩
10/10/22 時代祭

清少納言&紫式部

時代祭は、1895年(明治28年)。 平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建された折、その記念事業として始まった京都三大祭のひとつ。 祭が行われる10月22日は、桓武天皇が長岡京から平安京に都を移した日である。

祭の行列は20列2000人により、長さは2キロに及ぶ。 所要時間は約2時間半。明治維新から江戸、安土桃山と時代を近代から過去へと遡り、時代風俗を展開する。

まずは、笛の音とともに維新勤皇隊が登場し、 京都知事と京都市長が馬車であらわれ、続いて幕末志士列、さらに徳川城使上洛列と続く。 まさに、各時代からタイムスリップしてここに会したが如く、 一幅の絵巻物を広げた様な光景が目の前に繰り広げられる。 観客の中、多くの外国人が、言葉も文化も違う異国の風俗にくぎ付け。
閑話
時代祭の裏側


行列が始まる前の会場で人気を1人(1匹)占めしていたのが、 刀を背負った時代祭コーデのワンちゃん。
ほんとに、可愛い。

カメラを構えた観光客達に、少々困惑気味。 シャイな人柄、いや犬柄とお見受けした。


行列に従って、時々道の真ん中を歩く作業着の2人。 1人は塵取りと箒を手にし、もう1人は段ボール箱を積んだリヤカーを押す。

これ、行列に参加している馬の落し物を拾っているのだ。尾籠なお話で、恐縮。
10/10/22 鞍馬の火祭

赤線が混雑路
子供松明ルート 鞍馬寺山門下~くらま温泉
大人松明ルート ①+由岐神社
(川下のお旅所から神社)


「京都三大奇祭(京都市無形民俗文化財)」のひとつ。叡山電鉄鞍馬線・鞍馬駅下車。

平安中期、相次いだ戦乱や大地震や大火を鎮めるために、朱雀天皇が御所に祀られていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。 その際、松明や神具を携えた行列は約1キロにおよび、感激した鞍馬の地元住民が後世に伝えようと今日まで守ってきたそうだ。

まずは、叡山電鉄・出町柳駅で鞍馬線に乗る。 出町柳駅は、すでに玩具箱をひっくり返したような大騒ぎ。 芋洗い状態となっていた。人が多すぎて、券売機までたどり着けない。「臨時の券売所って、どこ」 と見回せば、制服姿の職員がそこここに立ち、人波に交じって身一つで切符販売をしていた。 「大丈夫なのかな。このドサクサで、この人にお金を渡して」 と不安が頭をかすめるが、叡電の制服を着ているから、まずは信用するか。

雑踏の中、切符を手に入れ、首尾よくやってきた電車に飛び乗った。 この路線は2両編成で、祭による増便はあるものの、夕方からかなりの待ち時間が発生するらしいと聞いていただけに、上首尾。聞く処によれば、帰りの電車は更なる混雑が待っているらしい。

それなら、現地で泊まれば良いのだが、 そもそも、宿が取れない。旅館は、祭の1年前に宿泊希望者の中からくじ引きで宿泊者を決めるのだとか。 幻の宿。地元に縁故知人のいる人が羨ましい。


氏子の家・戸が外され飾席が


松明

町内に七つの仲間(氏子)が編成され、その中から拠点となる宿が設けられる。 宿には大篝や大松明が設営され、鉾や兜などを飾った飾席が据えられていた。 鞍馬は4つの集落なので松明は4本。

子供松明が始まる午後6時には少々間があるので、ぶらりと町を散策してみる。 起点は、鞍馬寺山門。祭が始まれば立入禁止になるが、今は人でいっぱい。

鞍馬寺山門石段を下り「くらま温泉」方面へと歩く。 狭い道の両側に立ち並ぶ家々。 飾席のある家から出てきた御主人が、通りすがりの観光客の問いかけに丁寧に答えて言った。 「今日は地元の者にとっては、盆と正月がいっぺんに来たようなもんですよ。 この日のために、1年間働いてますわ。」

祭の前の昂りが、そくそくと伝わってくる。



道の突き当たり「くらま温泉」到着。宿泊施設のホテルと別棟の露天風呂が建ち、広い駐車場では、タコ焼きやらビールやらの屋台が立ち並ぶ。 タコ焼きを頬張り小腹を満たした後は、ホテルでトイレを借りて山門へ下りてみる。

ところが、さっき登ってきた時とは様子が一変し、警備の警察官が道路にロープを張り通行規制が始まっていた。 鞍馬集落は道幅が狭いために、祭の時には歩行者の一方通行規制がしかれるのだ。

町に夜の帳が下りた頃、私と家人は誘導のままに迂回路を歩いていた。 迂回路は、今日一日だけの急ごしらえの路。照明も何もない真っ暗な畑の間の道である。と、ご婦人がやってきて言う。 「ここ、通して下さい」。 「今、一方通行になってますから、列に入って並んで下さい」と警官。 すると、彼女が叫んだ。「私の家はあそこです。自分の家に帰るのに、並ばなきゃならないの」。 地元の人たちは、大変だ。

ちなみに迂回路は2本。 1本目は、私達の様に「くらま温泉」から下りてくる人たち用。 もう1本は駅からの人たち用。 いずれも時計周りで、「温泉からのグループ」は途中で「駅からのグループ」と合流する。


子供松明

2本の迂回路が出会う所は、それぞれに進行方向が違う。 合流する混雑路周辺は道路に沿って何重もの人波で、大混乱。 煙は見えるが、他に見えるのは人の頭ばかり。 そのうちに混雑路に出くわし、警備の警察官の胸の前に押し出された。 1番前。なんという幸運。通路は、立ち止まり禁止だが、やっと見える場所へ来た人たちは動く気配がない。 「前に進んで下さい。止まらないで」。懸命に誘導する警官の声が、むなしく人ごみに吸い込まれていくばかり。

運よく一番前に押し出された私と家人。 子供松明を、目の前で見る事が出来た。 半歩づつ歩を進めながら、ではあるが。 煌びやかな衣装に身をつつみ、松明を担ぐ子供たち。 何て、可愛いのだろう。 しかし、一瞬のうちに通りすぎ、人波に流され山門前に押し出されてしまった。

ここからの選択肢はふたつ。 このまま帰るのなら駅方向へ向かう右で、祭を再観賞するならば左の迂回路。 祭のクライマックスは、午後9時頃から始まる大人松明。 見たい思いは山々なれど、又また迂回路の行軍を何度も繰り返すのは、嫌だ。 帰りの電車も心配だし。子供松明を見られただけでも幸運。 と自分に言い聞かせつつ、帰ることにした。

これ程までに混みあう祭だが、実は迂回路をぐるぐる歩かされるのは道路の川側の人達だけで、 山門側は迂回路がないので動くことも出来ない。 そのため、早く来て場所を取っておけば有利。不公平感が否めない。

しかし、珍しい火祭を垣間見る事が出来た。めでたし。
閑話
小蝿

世の中には、ビックリする事があるものダ。

時代祭をみて、その足で鞍馬へ直行し、未だ昼も食べていない。 どこかで、昼夜兼用の食事を済ませよう。 乗継駅の出町柳に到着。電車から吐き出された人波が三々五々散っていき、ほっと吐息がもれた時、家人が言った。 「そう言えば、地図によれば近くに●●チェーンがあったと思うけど」 昨年の祇園祭りの折、洛中の●●チェーンの前には客が列をなし、後日、醍醐店へ入店したら、安くてボリューム満点だった。

駅裏の小路に、その店はあった。 どう見ても「ただの赤ちょうちん」。 広くて明るいファミレス風の醍醐店とは、雲泥の差。 チェーン店だから、概ねのレベルは保証されているはずと思いなおし、暖簾をくぐった。 店内は調理場に沿ったカウンターが一枚と、壁に沿ったカウンターが一枚据えられている。 カウンターの向こうでは、50代位の店主が中華鍋をあおりながら常連らしき客と話しこんでいた。 その周りでは若い男性が2人、皿を洗ったり米を研いだり。 それをチラ見する店主は、些細な事で彼らを怒鳴り散らす。

壁側のカウンター席に腰を下ろそうとしたその時、賄いのお兄ちゃんが尖った声で言った。 「そっちに座るんですか」こっちは駄目なのか。何でそんなに怒ってるんだ。 別にどこに座っても構わないんだけど。 ふと、目の前のカウンターに視線を落とすと、「無料です。ご自由にどうぞ」と書かれた沢庵の丼の中が、ざわざわと騒がしい。 丼の中をのぞいてみると、真っ黄色の沢庵の上に無数の胡麻が降り掛けられていた。 否、胡麻の正体は黒い小蝿だ。 それが思い思いに蠢いて、ラップの下から飛び出してくる。 そこでやっと合点がいった。 店員のお兄ちゃんは、忙しさで虫のわいた沢庵丼をさげる時間がなかったのだろう。 口やかましい店主に知られると、叱られるのは必定。 で、件の尖った声となったのだろう。それにしても、「タダです、自由に」 と言われても、小蝿いりの沢庵はいただけない。 今時、こんな不衛生な店が潰れもせず営業出来ているのが、不思議でならない。
4日目   平安神宮 &琵琶湖疏水記念館&南禅寺 編   今日の歩数=20,360歩
10/10/23 平安神宮

塔の一角
神服?の繕いをするご婦人たち

今日は、家人とは別行動の一日。

平安神宮は、1895年(明治28年)平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、 平安京の大内裏の一部を5/8に縮小し、ここ岡崎に復元された。 その後、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社となる。 昨日観た時代祭も平安遷都記念行事として始まり、その行列は御所を始点とし平安神宮を終点とする。

境内に足を踏み入れると、まず広さにびっくり。 次に、建物の赤にびっくり。 大極殿・向って左側の塔・廊下で、年配のご婦人方が山積みの白い衣服を前に何やら手を動かしていた。 神服の修理繕いの奉仕活動か。平安神宮の大祭・建造物・神苑(庭園)の保存のために、市民による平安講社が組織されたという。 当時の行政区分に従って、上京区・下京区・愛宕郡・葛野郡の4地区を6社に分け、社は学区ごとの組から構成されていたそうな。 その後、市の拡大で平安講社は拡張するも、戦後1度解散し、再出発をとげ今にいたる。 現在も時代祭の運営は、平安講社の手による。 京都市民の尽力によって、京の歴史が守り残されている。 京の人々の愛郷心と京人としてのプライド、その組織力。凄い。
閑話
どんつき

平安神宮周辺。今日は、道のあちこちに制服警官の警備が。 まずは、駅の位置を確認せねば。辻に立っていた警備のイケメン警察官をつかまえて、聞いたところ 「あぁ、それなら このドンツキを右へ行って~。」

※どんつき:どんと突き当たる場所。京言葉。

偶然にも、地元警察官の口からポロッと京言葉がこぼれた。
10/10/23 琵琶湖疏水記念館

琵琶湖疏水記念館

「どんつき」を右手に折れ、道なりに歩く。運が良ければ、南禅寺にたどり着く筈。と、 左に大きな建物が現れた。琵琶湖疏水記念館。 入館無料。疏水とは、舟運・発電・上水・灌漑用水を目的に、琵琶湖から京都までひかれた水路のことである。

明治期、京都府知事・北垣国道が、帝を東京へ奪われて衰微する京都に、新しい産業としてのエネルギー開発ブランを計画した。 それは、琵琶湖から京都へ水路を引くという、遠大なものであった。

たまたま、卒論のために水路の実測をしていた学生・田辺朔朗の存在が工部大学校長・大鳥圭介から知事へ伝えられた。 田辺は卒業直後に京都府御用掛を拝命、技師として我国初の大疏水工事を主導していくこととなる。 しかし、外国技師の手を借りずしての手探りの工事は、難航を極める。 資材の調達、人夫の犠牲など山積する問題が、大学を出たての若き技師の双肩にかかった。

最大の難問は、蹴上から九条山までの582メートル。 その間の36メートルの高低差を克服しない限り、水運は成立しない。 田辺がひねり出した知恵が、船をそのまま台車に乗せてレールの上を移動する水陸両用船・インクライン。 これにより、急こう配を見事クリア。 このプロジェクト完成までの記録や苦難の歴史が、ここ琵琶湖疏水記念館に細やかに展示されている。

技師・田辺は卒論の水路実測中に、謝って右手に大怪我を負ってしまう。 しかし、卒業が遅れることを懸念し左手で論文と製図を書きあげた。 実物の卒論を見て、飛びあがるほど驚いた。 流れる様な英文字と正確な線で描かれた製図。 これが、左手での作業によるものとは誰も思わない。 その挫けない強い意志こそが、この大事業を成し遂げ得た理由に他ならない。

水路の水は世界二番目の水力発電建設となり、それにより日本初の市電が京都の町を走ることとなった。 さらにインクライン(傾斜鉄道)による琵琶湖から京都までの舟運も開通。 疏水が京都にもたらしたものの大きさを、改めて思う。 時代は遷り、今は電車も廃止されインクラインは錆びたレールを残すのみとなった。 しかし、疏水は今日も京都市民の上水として使われている。

記念館から疏水を眺めた。満々と湛える水は、過ぎし日をすべて飲みこんで沈黙する。 この大事業がなければ、現在の京都は廃れた片田舎だっただろう。 若手の知事と大学卒業したてのフレッシュな技術者。 インクラインは、この2人の出会いと情熱が生み出した奇跡であり、時代が求めた必然という名の運命でもある。
インクラインを歩いてみた

インクライン

疏水記念館前のインクライン・レールを歩いてみた。 このまま水路に沿って行けば、琵琶湖に辿りつく。

カメラ片手の観光客、子供連れの家族。インクラインを反対から歩いて来る人にすれ違う。

1人1人がそれぞれに、明治の夢の中を歩いていく。
10/10/23 南禅寺

入り口

三門

道なりに歩くと、南禅寺の前に出た。

南禅寺は臨済宗南禅寺派大本山の寺。 開基は亀山法王。 京都五山の上に位置し、日本の禅寺の中で最高の格式を持つ。境内無料。

さて、南禅寺と言えば、三門。別名「天下竜門」とも呼ばれるこの門は、日本三大門の一つである。 大阪夏の陣の後、藤堂高虎が戦死した部下らの冥福を祈るために寄進したという。 今も、藤堂家歴代の位牌や大阪夏の陣の戦死者の位牌が安置されている。

また、歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな」と唸るのが、ここ南禅寺三門。 門とは言え、五間三戸(正面の柱間が五間で、そのうち中央の三間が出入口)の二重門(2階建の門)というデラックスな造り。 2階からの眺めは如何ばかりか。 ただ、三門が建てられたのは五右衛門の死後30年を過ぎてから。
水路閣









南禅寺には、テレビドラマの撮影場所によく使われる超人気スポットがある。 境内を流れる琵琶湖疏水・水路閣だ。 そもそも格式高い寺の敷地を疏水が悠々と流れている事自体、不思議。 案の定、建設当時「古都の景観を破壊する」との反対運動が起こったのだと。 今では京都を代表する風景の一つである。

木々の合間に突如出現する水路閣。 長年の風雪をたっぷりと受け止めてきた煉瓦が醸し出す空間は、まるで外国へワープしたようだ。 モダンにして古色。西洋風建築なのに、名刹の雰囲気にしっくりと重なる。 疏水設計者・田辺朔朗は、100年後のこの景色をも想定していたのか。
5日目   奈良の町散策&春日大社 編   今日の歩数=19,698歩
閑話
餅飯殿(もちいどの)センター街

奈良の駅舎を出て、傍の餅飯殿センター街を行く。名の通り 餅屋が多い。

その時 中年男性に「どこかお探しですか」と尋ねられた。 当方 行き先すらも決まっていない。 男性は少しの間 思案して、言った。 「奈良はお寺もいいし、町並みを見ながら散策するのもいいかと思いますよ。 このあたりだと、春日大社が、ほらあそこに」と身を捻り、その方角を指差した。

中谷堂

つきたてよもぎ餅@130円

男性が、後ろの店にふと目をとめ「あそこのお餅、つきたてで美味しいんですよ」と教えてくれた。 甘いものに目が無い家人は、店先でついている餅に釘付け。 中谷堂「つきたてよもぎ餅」@130円。まだ温もりが残る出来立ての餅は、さすがに美味。

餅を頬張りながら、町散策へと出発。件の男性が追いかけてきて、念押しをした。 「山が見える方角が、東ですからね」
10/10/24 なら格子の家

みせの間
(正面が道路側の格子)

「なら格子の家」では、「ならまち」伝統の古民家が忠実に再現されていた。入場無料。

当時、奈良の町家は、間口の幅で課税額が決められたために、横幅は狭く奥行きが長い形状の家を作った。 玄関わきの「みせの間」に立つと、中の間、奥の間、中庭、離れ、その先の蔵までが一線となり一目で見渡す事が出来る。 心地よい風が、吹き抜けていく。

みせの間の格子は、外から中は見えにくいが、逆に家の中からは外の様子が手に取る様に見える。不思議。

玄関奥の台所には竈が並び、2階まで吹き抜けになっていた。天窓からは柔らかな光が刺し込む。なんてお洒落な。

格子、箱階段、吹き抜けの明かり採りなど、随所に生活の知恵が散りばめられ、思わず唸ってしまった。 扇風機やクーラーが無くとも間取りの工夫によって涼しい風が通り抜け、 細かな作業をする台所は照明が無くても吹き抜けを通して天窓から明かりが射し込む。 昔の人の知恵、その底力を見せつけられた。
10/10/24 元興寺(芝新屋町)

元興寺五重塔址

ぶらぶらと町歩き。五重塔址に遭遇した。寺の名は、元興寺(がんごうじ)。

ここへ来る間、あちこちの看板や説明書きで、この名を度たび目にした。 不思議に思い、奈良駅周辺の観光地図をひろげてみる。 すると、ここ芝新屋町の元興寺は東大寺の末寺で華厳宗。 北の中院町にもう1つ存在する元興寺が真言律宗。 それぞれに宗派が違う寺だが、実は元々は1つの寺だったそうな。

元興寺の前身は、蘇我馬子が建立した南都七大寺の1つ・法興寺(飛鳥寺)。 奈良時代には東大寺や興福寺と並ぶ大寺院だったが、中世以降に衰退し、 浄土信仰の極楽坊と江戸末期に焼失してしまった五重塔を配する芝新屋町とに分かれ、その隙間は民家で埋められていった。 奈良町は、そのほとんどが元興寺の境内だったという事。 以後、隆盛が戻ることはなく、未だに復興の見通しはない。

残された五重塔址に立つ。 平らな土地の所々に残された石が、五重塔の礎石だろうか。 今はただ、想像するより術がない。 これ程までに勢力をふるった大きな寺が、時の流れの波間で揉まれ2つに割れてしまった。 時間の残酷さを、址は雄弁に物語る。
10/10/24 猿沢池

猿沢池

亀たち

元興寺を出て商店街を通りぬけた所で、猿沢池に着いた。 元興寺の隆盛時は、ここ猿沢池までが境内だったというから、改めてその勢力の隆盛に驚かされる。

猿沢池は、興福寺の放生池として天平21年につくられた人工池。万物の生命を慈しむという宗教の教えに因って、捕獲された生き物たちをここに放流したのだそうな。

猿沢池の七不思議

「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず、藻は生えず。魚が七分に水三分。」

(猿沢池の水は、決して澄むことがなく、又ひどく濁ることもない。 水が流入する川はなく、それなのに常に一定の水量を保っている。 亀は沢山いるが、蛙もいなく藻も生えない。多くの魚が放流されるが、魚で溢れることもない。)

一体どんな摂理によって保たれているのか、不思議だ。

芥川龍之介「龍」

芥川龍之介の小説「龍」が、猿沢池に古くから伝わる「雲を呼び、雨を降らせながら龍が天に昇った」 という伝説をもとに書かれたことは、つとに有名である。

「蜂に刺された様に真っ赤な大きな鼻を持つ法師がおったとさ。 彼は、鼻蔵鼻蔵と囃されて悔しい思いをしていたんだと。 ある日のこと、鼻蔵はいつもからかう人達を見返してやりたいと思い、興福寺の前の猿沢池に建札をたてたんだと。 「三月三日この池より竜昇らんずるなり」。 無論、何の根拠もないでたらめな話。 しかし、噂はいつの間にか尾鰭がついて全国へと広まって予想もしない大きな話に膨らんでいったそうな」

人間が思うことで、竜が姿を現すという。 元より、論拠はどこにもない。 思い続ける人間の一途さと、思いを受け止めて折々に姿を見せる竜の律儀さが、妙に愛おしい。
10/10/24 春日大社

石灯籠

藤浪之屋


直会殿の吊り燈籠


直江兼継が寄進した燈籠

春日大社の起源は、710年 藤原不比等が平城遷都の折に藤原氏の氏神を祀ったためと言われている。 藤原氏が勢力をのばすにつれて社殿の造営が繰り返され、皇族や貴族の春日詣でが盛んになり、 次第に武家や庶民にもひろまり全国に御分社がつくられていった。本殿参拝@500円。

境内のどこを歩いても国宝級の文化財に行きあたる。 闊歩する1000頭以上の鹿たちも神鹿(しんろく)という天然記念物。まさに、宝の宝庫。

圧巻なのは、1000にも及ぶ回廊の吊り燈籠と参道に並ぶ2000の石灯籠。 言葉も忘れて、見惚れてしまった。 2月の節分と8月のお盆には、一斉に万燈籠に灯がともされるのだとか。 それ以外の時期にも特別公開として雰囲気を体験出来るのが、藤波之屋。 ここは北回廊の東角にあり、かつては神職の詰所だった所。 真っ暗な中、揺らめく灯りがかもしだす空間は、まさに幽玄の世界そのもの。
6日目   知恩院 編   今日の歩数=20,023歩
10/10/25 知恩院

三門

知恩院は、浄土宗総本山の寺。 開基・法然が没するまでの後半生を過ごした地である。 信徒は徳川将軍家から一般庶民まで、身分を超えて幅広い。

横にいた旅行中とおぼしき夫婦連れの御主人が、 ボランティアガイドさん相手に「法然と親鸞」についての知識を披露し始めた。 「元々は親鸞は法然の弟子だったのに、いつの間にか法然の浄土宗よりも親鸞の浄土真宗の方が隆盛しちゃって、 庇を貸して母屋を取られた様なもんだ」 聞いていたガイドさんは、相槌を打ちつつもどこか苦~い表情。 確かに、事実は仰せの通り。が、ここは法然の浄土宗総本山なのだ。空気が読めないお方。

ハタと思った。 徳川将軍家は代々浄土宗を信仰してきた。 が、徳川家康は浄土真宗の東本願寺に現在の東本願寺が建っている土地を寄進した。 宗派が違うのに、何故だろう。 家康は本願寺に土地を与え、そこに東本願寺を建てさせ、 増大する本願寺を東と西に2分することで勢力を削ごうと企てたのではなかったか。 為政者としては、強大勢力の芽は摘まねばなるまい。さすが「タヌキおやじ」。
10/10/25 田毎

そば定食@1155円

「御蕎麦 田毎」。看板をみるだけでも、老舗の臭いがぷんぷんだ。

店内は食事には中途半端な時間だというのに、結構な客の入り。 総じて年齢層が高めなのは時間帯のせいか、はたまた値段が高めなせいか。

我らが注文したのは「そば定食」@1155円。(海老天ぷらそば・白ご飯・箸休め・漬けもの) このメニュー、時間限定で午前10時から午後3時まで。 それ以降は@1365円となる。程なく運ばれてきた天そばの鰹の香りに、思わず頬がゆるむ。 麺は、歯ごたえがあり美味しい。

本日の2人の鼻は、なかなかに利いていた模様。
7日目   新世界&帰宅 編   今日の歩数=14,218歩
10/10/26 朝日

串かつ

タレは勿論 二度づけ禁止

ここは新世界。となれば、やっぱり「串かつ」。 男前のお兄さんが、店の前で割引券を配布していた。 店内を窺えば、広くて小奇麗。小上がりあり。

開店間際の店内、奥のカウンターで焼酎をひっかけているオジサンが1名。先客ありとは、さすが新世界だ。

ビール @450円×1
串カツ5本盛り @650円×2
いか @130円×2
つくね @110円×2
たこ @130円×2
ご飯(小) @210円×2

このタレが、有名な二度づけ禁止。 ほなら、一回でだっぷりと浸しとかな。 裏表に目いっぱいタレを含ませて頬張ると、口の中でジュワッと広がるこの食感。 揚げたての串かつ、美味しい。
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